Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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教行証御書  (4/8) 一切は現証には如かず
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婆羅門が高座の足等云云、彼れ此れ是くの如き次第何なる経文論文に之を出すやと等云云、其の外常に教へし如く問答対論あるべし、設ひ何なる宗なりとも真言宗の法門を云はば真言の僻見を責む可く候。

次に念仏の曇鸞法師の難行・易行・道綽が聖道・浄土・善導が雑行・正行・法然が捨閉閣抛の文、此等の本経・本論を尋ぬべし、経に於て権実の二経有ること例の如し、論に於ても又通別の二論有り、黒白の二論有ること深く習うべし、彼の依経の浄土三部経の中に是くの如き等の所説ありや、又人毎に念仏阿弥陀等之を讃す又前の如し、所詮和漢両国の念仏宗・法華経を雑行なんど捨閉閣抛する本経本論を尋ぬべし、若し慥なる経文なくんば是くの如く権経より実経を謗ずるの過罪、法華経の譬喩品の如くば阿鼻大城に堕落して展転無数劫を経歴し給はんずらん、彼の宗の僻謬を本として此の三世諸仏の皆是真実の証文を捨つる其の罪実と諸人に評判せさすべし、心有らん人誰か実否を決せざらんや、而して後に彼の宗の人師を強に破すべし、一経の株を見て万経の勝劣を知らざる事未練なる者かな、其の上我と見明らめずとも釈尊並びに多宝分身の諸仏の定判し給へる経文・法華経許り皆是真実なるを不真実・未顕真実を已顕真実と僻める眼は牛羊の所見にも劣れる者なるべし、法師品の已今当・無量義経の歴劫修行・未顕真実何なる事ぞや五十余年の諸経の勝劣ぞかし、諸経の勝劣は成仏の有無なり、慈覚智証の理同事勝の眼・善導法然の余行非機の目・禅宗が教外別伝の所見は東西動転の眼目・南北不弁の妄見なり、牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず、依法不依人の経文・毀謗此経の文をば如何に恐れさせ給はざるや、悪鬼入其身して無明の悪酒に酔ひ沈み給うらん。

一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や、観仏相海経等の諸経並びに竜樹菩薩の論文如何が候や、一行禅師の筆受の妄語・善無畏のたばかり・弘法の戯論・慈覚の理同事勝・曇鸞道綽が余行非機・是くの如き人人の所見は権経権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん、


それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞやと・和らかに又強く両眼を細めに見・顔貌に色を調へて閑に言上すべし。

状に云く彼此の経経得益の数を挙ぐ等云云、是れ不足に候と先ず陳ぶべし、其の後汝等が宗宗の依経に三仏の証誠之有りや未だ聞かず、よも多宝分身は御来り候はじ、此の仏は法華経に来り給いし間・一仏二言はやはか御坐候べきと・次に六難九易何なる経の文に之有りや、若し仏滅後の人人の偽経は知らず、釈尊の実説五十年の説法の内には一字一句も有るべからず候なんど立つ可し、五百塵点の顕本之有りや・三千塵点の結縁説法ありや・一念信解・五十展転の功徳何なる経文に説き給へるや、彼の余経には一二三乃至十功徳すら之無し五十展転まではよも説き給い候はじ、余経には一二の塵数を挙げず何に況や五百三千をや、二乗の成不成・竜畜・下賤の即身成仏今の経に限れり、華厳・般若等の諸大乗経に之有りや、二乗作仏は始めて今経に在り、よも天台大師程の明哲の弘法慈覚の如き無文無義の偽りはおはし給はじと我等は覚え候、又悪人の提婆・天道国の成道・法華経に並びて何なる経にか之有りや、然りと雖も万の難を閣いて何なる経にか十法界の開会等草木成仏之有りや、天台妙楽の無非中道・惑耳驚心の釈は慈覚智証の理同事勝の異見に之を類す可く候や、已に天台等は三国伝灯の人師・普賢開発の聖師・天真発明の権者なり、豈経論になき事を偽り釈し給はんや、彼れ彼れの経経に何なる一大事か之有るや、此の経には二十の大事あり就中五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人人は思召し候、我等が如き凡夫無始已来生死の苦底に沈輪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を・無作本覚の三身と成し実に一念三千の極理を説くなんど・浅深を立つべし、但し公場ならば然るべし私に問註すべからず、慥に此の法門は汝等が如き者は人毎に座毎に日毎に談ずべくんば三世諸仏の御罰を蒙るべきなり、日蓮己証なりと常に申せし是なり、大日経に之有りや、浄土三部経の成仏已来凡歴十劫之に類す可きや、なんど前後の文乱れず一一に会す可し、其の後又云うべし、諸人は推量も候へ是くの如くいみじき御経にて候へばこそ多宝遠来して証誠を加え分身来集し


て三仏の御舌を梵天に付け不虚妄とは訇しらせ給いしか、地涌千界出現して濁悪末代の当世に別付属の妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給うべき仏の勅使なれば・八十万億の諸大菩薩をば止善男子と嫌はせ給しか等云云、又彼の邪宗の者どもの習いとして強に証文を尋ぬる事之有り、涌出品並びに文句の九・記の九の前三後三の釈を出すべし、但日蓮が門家の大事之に如かず。

又諸宗の人・大論の自法愛染の文を問難とせば、大論の立所を尋ねて後・執権謗実の過罪をば竜樹は存知無く候いけるか、「余経は秘密に非ず法華是れ秘密」と仰せられ・譬如大薬師と此の経計り成仏の種子と定めて・又悔い返して「自法愛染・不免堕悪道」と仰せられ候べきか、さで有らば仏語には「正直捨方便・不受余経一偈」なんど法華経の実語には大に違背せり、よもさにては候はじ、若し末法の当世・時剋相応せる法華経を謗じたる弘法・曇鸞なんどを付法蔵の論師・釈尊の御記文にわたらせ給う菩薩なれば鑒知してや記せられたる論文なるらん、覚束無しなんどあざむくべし、御辺や不免堕悪道の末学なるらん痛敷候、未来無数劫の人数にてや有るらんと立つ可し。

又律宗の良観が云く法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く、忍性年来歎いて云く当世日蓮法師と云える者世に在り斎戒は堕獄す云云、所詮何なる経論に之有りや是一、又云く当世日本国上下誰か念仏せざらん念仏は無間の業と云云、是れ何なる経文ぞや慥なる証文を日蓮房に対して之を聞かん是二、総じて是体の爾前得道の有無の法門六箇条云云、然るに推知するに極楽寺良観が已前の如く日蓮に相値うて宗論有る可きの由訇る事有らば目安を上げて極楽寺に対して申すべし、某の師にて候者は去る文永八年に御勘気を蒙り佐州へ遷され給うて後・同じき文永十一年正月の比御免許を蒙り鎌倉に帰る、其の後平金吾に対して様様の次第申し含ませ給いて甲斐の国の深山に閉籠らせ給いて後は、何なる主上・女院の御意たりと云えども山の内を出で諸宗の学者に法門あるべからざる由仰せ候、随つて其の弟子に若輩のものにて候へども師の日蓮の法門・九牛が一毛をも学び及ばず候といへども法