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日蓮大聖人・池田大作

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報恩抄  (34/37) 南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南…
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一切の有ることわりなり、阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども但小釈迦・一仏のみありて他仏なし、華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏いまさず、例せば華さいて菓ならず雷なつて雨ふらず鼓あつて音なし眼あつて物をみず女人あつて子をうまず人あつて命なし又神なし、大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし、彼の経経にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各各・当体の自用を失ふ、例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ諸の鉄の一の磁石に値うて利性のつき大剣の小火に値て用を失ない牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり衆狐が術・一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがごとし、南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用皆悉く妙法蓮華経の用に失なはる、彼の経経は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのものなるべし当時眼前のことはりなり、日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく塩のひるがごとく秋冬の草の・かるるがごとく冰の日天に・とくるがごとく・なりゆくをみよ。

問うて云く此の法実にいみじくばなど迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は善導が南無阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく・すすめ給はざりけるやらん、答えて云く此の難は古の難なり今はじめたるにはあらず、馬鳴・竜樹菩薩等は仏の滅後・六百年・七百年等の大論師なり、此の人人世にいでて大乗経を弘通せしかば諸諸の小乗の者・疑つて云く迦葉・阿難等は仏の滅後・二十年・四十年住寿し給いて正法をひろめ給いしは如来一代の肝心をこそ弘通し給いしか、而るに此の人人は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給いしに今・馬鳴・竜樹等かしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一、迦葉は仏にあひまいらせて解をえたる人なり、此の人人は仏にあひたてまつらず是二、外道


は常・楽・我・浄と立てしを仏・世に出でさせ給いて苦・空・無常・無我と説かせ給いき、此のものどもは常楽我浄といへり、されば仏も御入滅なり又迦葉等もかくれさせ給いぬれば第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり、されば仏法のあだをば頭をわれ頸をきれ命をたて食を止めよ国を追へと諸の小乗の人人申せしかども馬鳴・竜樹等は但・一二人なり昼夜に悪口の声をきき朝暮に杖木をかうふりしなり、而れども此の二人は仏の御使ぞかし、正く摩耶経には六百年に馬鳴出で七百年に竜樹出でんと説かれて候、其の上楞伽経等にも記せられたり又付法蔵経には申すにをよばず、されども諸の小乗のものどもは用いず但めくらぜめにせめしなり、如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり、提婆菩薩の外道にころされ師子尊者の頸をきられし此の事をもつて・おもひやらせ給へ。

又仏滅後・一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり陳隋の代に天台大師出世す、此の人の云く如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり、迦葉・阿難等は一向に小を弘め馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば或は但指をさして義をかくし或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あつて観心なしといひしかば、南三・北七の十流が末・数千万人・時をつくりどつとわらふ、世の末になるままに不思議の法師も出現せり、時にあたりて我等を偏執する者はありとも後漢の永平十年丁卯の歳より今陳隋にいたるまでの三蔵・人師・二百六十余人をものもしらずと申す上謗法の者なり悪道に墜つるといふ者・出来せり、あまりの・ものくるはしさに法華経を持て来り給へる羅什三蔵をも・ものしらぬ者と申すなり、漢土はさてもをけ月氏の大論師・竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり、此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり鬼をころすにもすぐべしとののしりき、又妙楽大師の時・月氏より法相・真言わたり漢土に華厳宗の始まりたりしを・とかくせめしかば・これも又さはぎしなり。


日本国には伝教大師が仏滅後・一千八百年にあたりて・いでさせ給い天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給いしかば在世の外道・漢土の道士・日本に出現せりと謗ぜし上・仏滅後・一千八百年が間・月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和の国・東大寺の戒壇は同く小乗臭糞の戒なり瓦石のごとし、其を持つ法師等は野干・猿猴等のごとしとありしかばあら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん、殷の紂・夏の桀・法師となりて日本に生まれたり、後周の宇文・唐の武宗・二たび世に出現せり仏法も但今失せぬべし国もほろびなんと大乗・小乗の二類の法師出現せば修羅と帝釈と項羽と高祖と一国に並べるなるべしと、諸人手をたたき舌をふるふ、在世には仏と提婆が二の戒壇ありて・そこばくの人人・死にき、されば他宗には・そむくべし我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ・あらおそろしおそろしとののしりあえりき、されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ、されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬・重病には仙薬・弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声