Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (25/41) 妙とは不死の薬なり
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切衆生なり、所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり、貧人とは日本国の一切衆生なり、此の題目を唱え奉る者は心大歓喜せり、されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり所詮此珠とは我等衆生の一心なり、一念三千なり此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり、此の珠は広く一切衆生の心法なり此の珠は体中にある財用なり、一心に三千具足の財を具足せり、此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり、此の経文・色心の実相歓喜を説けり・見此珠の見は色法なり、其心大と云うは心法なり、色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり、所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり、仍つて一念三千の宝珠なり、所謂妙法蓮華経なり、今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ、見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり、然りと雖も其心大歓喜と云う時は、日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり、所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する、其心大歓喜なり、されば、我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻し、貧人となる、近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道せり、之れに依つて貧人と成る、今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て本の如く取り得たり、此の故に心大歓喜せり、末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり、是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一如甘露見灌の事

仰に云く甘露とは天上の甘露なり、されば妙楽大師云く実相常住は甘露の如し是れ不死の薬云云、此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり、甘露は不死の薬と云えり、所詮妙とは不死の薬なり、此の心は不死とは法界を指すなり、其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり、生住異滅の当位当位・三世常恒なるを不死と云う、本法の徳として・水はくだりつめたく火はのぼりあつし、此れを妙と云う、此れ即


ち不思議なり、此の重を不死とは云うなり、甘露と妙とは同じ事なり、然らば法界の儘に閣いて妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり、火は水にきゆる本法にして不死なり、十界己己の当位・当位の振舞・常住本有なるを甘露とも妙法とも不思議とも本法とも止観とも云えり、所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり、見灌とは受持の一行なり云云。

一若有悪人以不善心等の事

仰に云く悪人とは在世にては提婆・瞿伽利等なり、不善心とは悪心を以て仏を罵詈し奉る事を説くなり、滅後には悪人とは弘法・慈覚・智証・善導・法然等是なり、不善心とは謗言なり此の謗言を書写したる十住心等・選択集等の謗法の書どもなり、さて末法に入て善人とは日蓮等の類いなり善心とは法華弘通の信心なり所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一如是如是の事

仰に云く釈に云く法相の是に如し根性の是に如するなり文、法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり、根性の是に如すとは、九法界を説かれたり、然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり、始の如是は教一開会なり次の如是は人一開会なり、権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融の教なり、根性に於ては性欲不同なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず、今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり、根性は不同なれども同じく如是性の一性なり、所詮今末法に入つての如法相是は塔中相承の本尊なり如根性是也と云うは十界宛然の尊像なり法相は南無妙法蓮華経なり、根性は日本国の一切衆生広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一是真仏子住淳善地の事

仰に云く末法当今に於て釈迦如来の真実の御子と云うは法華経の行者なり、其の故は上の文に能於来世読持此経と説けり来世とは末法なり、読むと云うは法華経の如説修行の行者なり、弘法・慈覚・智証・善導・法然等読みて云く第三の劣・戯論の法・捨閉閣抛・理同事勝等と読むは謗法にして三仏の御舌


を切るに非ずや何に況や持たんをや、伝教大師云く法華経を讚むると雖も還つて法華の心を死すとは是なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る人は、読持此経の人なり、豈是真仏子に非ずや淳善地は寂光土に非ずや、是真仏子の子の字は十界の衆生なり、所詮此の子の字は法華経の行者に限る、悉是吾子の子は孝不孝を分別せざる子なり、我等皆似仏子の子は中根の声聞・仏子に似たりと説かれたり、為治狂子故の子は、久遠の下種を忘れたれば物にくるう子なり、仍つて釈尊の御子にも物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり、所謂法華経の行者・真実の釈尊の御子なりと、釈迦・多宝・分身・三千三百万億那由佗の世界に充満せる諸仏の御前にして孝・不孝の子を定めをき給えり、父の業をつぐを以て子とせり、三世の諸仏の業とは南無妙法蓮華経是なり、法師品に行如来事と説けり云云、法華経は母なり釈尊は父なり我等衆生は子なり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生み給う文、菩薩とは法華経の行者なり、法師品に云く在家出家行菩薩道云云。

一非口所宣非心所測の事

仰に云く非口所宣は色法・非心所測は心法なり、色心の二法を以て大海にして教化したる衆生を宣測するに非ずと云えり、末に至つては広導諸群生と説かれたり云云。

一不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事

仰に云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥にそまざるが如し、此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり、地とは法性の大地なり所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し、但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり、世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり、所詮蓮華は水をはなれて生長せず水とは南無妙法蓮華経是なり、本化の菩薩は蓮華の如く過去久遠より已来・本法所持の菩薩なり蓮華在水とは是なり、所詮此の水とは我等行者の信心なり、蓮華は本因本果の妙