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日蓮大聖人・池田大作

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盂蘭盆御書  (4/4) 一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし…
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糞となりぬ、四男重衡は其の身に繩をつけて京かまくらを引かれて結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等・我等が仏のかたきなりとて一刀づつ・きざみぬ、悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ、故に法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。

されば此等をもつて思うに貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば虵の珠をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし、事事そうそうにて候へば・くはしくは申さず、又又申すべく候。恐恐。

  七月十三日                     日蓮花押

   治部殿うばごぜん御返事


浄蓮房御書

                    建治元年六月 五十四歳御作

細美帷一つ送り給び候い畢んぬ、善導和尚と申す人は漢土に臨淄と申す国の人なり、幼少の時・密州と申す国の明勝と申す人を師とせしが・彼の僧は法華経と浄名経を尊重して我も読誦し人をもすすめしかば善導に此れを教ゆ、善導此れを習いて師の如く行ぜし程に過去の宿習にや有りけん、案じて云く仏法には無量の行あり機に随いて皆利益あり・教いみじと・いへども機にあたらざれば虚きがごとし、されば我れ法華経を行ずるは我が機に叶はずは・いかんが有るべかるらん、教には依るべからずと思いて一切経蔵に入り両眼を閉ぢて経をとる観無量寿経を得たり、披見すれば此の経に云く「未来世の煩悩の賊に害せらるる者の為清浄の業を説く」等云云、華厳経は二乗のため法華経・涅槃経等は五乗に・わたれども・たいしは聖人のためなり、末法の我等が為なる経は唯観経にかぎれり、釈尊最後の遺言には涅槃経にはすぐべからず、彼の経には七種の衆生を列ねたり、第一は入水則没の一闡提人なり生死の水に入りしより已来いまに出でず・譬へば大石を大海に投入たるがごとし、身重くして浮ぶことを習はず常に海底に有り此れを常没と名く、第二をば出已復没と申す譬へば身に力有りとも浮ぶことを・ならはざれは出で已つて復入りぬ・此れは第一の一闡提の人には有らねども一闡提のごとし又常没と名く、第三は出已不没と申す・生死の河を出でてより・このかた没することなし、此れは舎利弗等の声聞なり、第四は出已即住・第五は観方・第六は浅処・第七は到彼岸等なり、第四・第五・第六・第七は縁覚・菩薩なり、釈迦如来世に出でさせ給いて一代五時の経経を説き給いて第三已上の人人を救い給い畢んぬ、第一は捨てさせ給いぬ、法蔵比丘阿弥陀仏此れをうけとつて・四十八願を発して迎えとらせ給う、十方三世の仏と釈迦仏とは第三已上の一切衆生


を救い給う、あみだ仏は第一第二を迎えとらせ給う、而るに今末代の凡夫は第一第二に相当れり、而るを浄影大師天台大師等の他宗の人師は此の事を弁えずして九品の浄土に聖人も生ると思へり悞りが中の悞りなり、一向末代の凡夫の中に上三品は遇大・始めて大乗に値える凡夫、中の三品は遇小・始めて小乗に値へる凡夫、下の三品は遇悪・一生造悪無間非法の荒凡夫、臨終の時・始めて上の七種の衆生を弁えたる智人に行きあひて岸の上の経経をうちすてて水に溺るるの機を救はせ給う、観経の下品・下生の大悪業に南無阿弥陀仏を授けたり、されば我れ一切経を見るに法華経等は末代の機には千中無一なり、第一第二の我等衆生は第三已上の機の為に説かれて候、法華経等を末代に修行すれば身は苦しんで益なしと申して善導和尚は立所に法華経を抛げすてて観経を行ぜしかば三昧発得して・阿弥陀仏に見参して重ねて此の法門を渡し給う四帖の疏是なり、導の云く「然るに諸仏の大悲は苦なる者に於て心偏に常没の衆生を愍念す是を以て勧めて浄土に帰せしむ亦水に溺るる人の如く急に須く偏に救うべし岸上の者何ぞ用いて済うことを為さん」と云云、又云く「深心と言えるは即ち是れ深信の心なり、亦二種有り、一には決定して自身は現に是れ罪悪生死の凡夫なり曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁有ること無しと深信す」又云く「二には決定して彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもうこと疑無く慮り無く彼の願力に乗ずれば定めて往生を得ると深信す」云云、此の釈の心は上にかき顕して候・浄土宗の肝心と申すは此れなり、我等末代の凡夫は涅槃経の第一・第二なり、さる時に釈迦仏の教には出離の縁有ること無し、法蔵比丘の本願にては「定得往生と知るを三心の中の深心とは申すなり」等云云、此又導和尚の私儀には非ず、綽禅師と申せし人の涅槃経を二十四反かうぜしが・曇鸞法師の碑の文を見て立所に涅槃経を捨てて観経に遷りて後此の法門を導には教えて候なり、鸞法師と申せし人は斉の代の人なり漢土にては時に独歩の人なり、初には四論と涅槃経とをかうぜしが・菩提流支と申す三蔵に値いて四論と涅槃を捨て観経に遷りて往生をとげし人なり、三代が間