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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (16/43) 自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり
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の所作には題目の五字なり余行を交えざるなり、又云く十界の語言は一返の題目を倶作したり、是れ豈感応に非ずや。

第七 以譬喩得解の事

止観の五に云く智とは譬に因るに斯の意徴し有りと。

御義口伝に云く此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝うるなり、惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり此の鏡とは一心の鏡なり、惣じて鏡に付て重重の相伝之有り所詮鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し、又云く鏡に於て五鏡之れ有り妙の鏡には法界の不思議を浮べ・法の鏡には法界の体を浮べ・蓮の鏡には法界の果を浮べ・華の鏡には法界の因を浮べ・経の鏡には万法の言語を浮べたり、又云く妙の鏡には華厳を浮べ・法の鏡には阿含を浮べ・蓮の鏡には方等を浮べ・華の鏡には般若を浮べ・経の鏡には法華を浮ぶるなり、順逆次第して意得可きなり、我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり、信謗の浮び様能く能く之を案ず可し自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり云云。

第八 唯有一門の事

文句の五に云く唯有一門とは上の以種種法門宣示於仏道に譬う、門に又二あり宅門と車門となり宅とは生死なり門とは出ずる要路なり、此は方便教の詮なり車とは大乗の法なり門とは円教の詮なりと。

御義口伝に云く一門とは法華経の信心なり車とは法華経なり牛とは南無妙法蓮華経なり宅とは煩悩なり自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云云。

第九 今此三界等の事

文句の五に云く次に今此三界より下・第二に一行半は上の所見諸衆生為生老病死之所焼煮を頌して第二の所見・火の譬を合す、唯我一人より下・第三に半偈は上の仏見此已便作是念を頌して、驚入火


宅を合するなりと。

御義口伝に云く此の文は一念三千の文なり一念三千の法門は迹門には生陰二千の世間を明し本門には国土世間を明すなり、又云く今此三界の文は国土世間なり其中衆生の文は五陰世間なり而今此処多諸患難唯我一人の文は衆生世間なり、又云く今此三界は法身如来なり其中衆生悉是吾子は報身如来なり而今此処等は応身如来なり。

       信解品六箇の大事

第一 信解品の事

記の六に云く正法華には信楽品と名く其の義通ずと雖も楽は解に及ばず今は領解を明かす何を以てか楽と云わんや。

御義口伝に云く法華一部廿八品の題号の中に信解の題号此の品に之れ有り、一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり、又云く信は不変真如の理なり其の故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり解は随縁真如なり自受用智を云うなり、文句の九に云く疑い無きを信と曰い明了なるを解と曰うと、文句の六に云く中根の人譬喩を説くを聞きて、初めて疑惑を破して大乗の見道に入る故に名けて信と為す進んで大乗の修道に入る故に名けて解と為す、記の六に云く大を以て之に望むるに乃ち両字を分ちて以て二道に属す疑を破するが故に信なり進んで入るを解と名く、信は二道に通じ解は唯修に在り故に


修道を解と名くと云うと。

第二 捨父逃逝の事

文句の六に云く、捨父逃逝とは大を退するを捨と為し無明自ら覆うを逃と曰い生死に趣向するを逝と為すと。

御義口伝に云く父に於て三之れ有り法華経・釈尊・日蓮是なり、法華経は一切衆生の父なり此の父に背く故に流転の凡夫となる、釈尊は一切衆生の父なり此の仏に背く故に備さに諸道を輪ぐるなり、今日蓮は日本国の一切衆生の父なり、章安大師の云く「彼が為に悪を除く即ち是れ彼が親なり」と、退大の大は南無妙法蓮華経なり無明とは疑惑謗法なり、自ら覆うとは法然・弘法・慈覚・智証・道隆・良観等の悪比丘・謗法の失を恣ままに覆いかくすなり。

第三 加復窮困の事

文句の六に云く、出要の術を得ざるを又窮と為し、八苦の火に焼かるるが故に困と為すと。

御義口伝に云く出要とは南無妙法蓮華経なり術とは信心なり、今日蓮等の類い窮困を免離する事は法華経を受持し奉るが故なり、又云く妙法に値い奉る時は八苦の煩悩の火自受用報身の智火と開覚するなり云云。

第四 心懐悔恨の事

文句の六に云く悔を父に約し恨を子に約すと、記の六に云く父にも悔恨あり、子にも悔恨ありと。

御義口伝に云く日本国の一切衆生は子の如く日蓮は父の如し、法華不信の失に依つて無間大城に堕ちて返つて日蓮を恨みん、又日蓮も声も惜まず法華を捨つ可からずと云うべきものを霊山にて悔ること之れ有る可きか、文句の六に云く「心懐悔恨とは昔勤に教詔せず訓うること無くして逃逝せしむることを致すことを悔い子の恩義を惟わずして我を疎んじ他に親しむるを恨む」と。