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日蓮大聖人・池田大作

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十法界明因果抄  (7/11) 菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ…
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四に比丘尼なり五百戒を持す余は比丘の如し、一代諸経に列座せる舎利弗目連等の如き声聞是なり永く六道に生ぜず亦仏菩薩とも成らず灰身滅智し決定して仏に成らざるなり、小乗戒の手本たる尽形寿の戒は一度依身を壊れば永く戒の功徳無し、上品を持すれば二乗と成り中下を持すれば人天に生じて民と為る之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり、安然和尚の広釈に云く「三善は世戒なり因生して果を感じ業尽きて悪に堕す譬えば楊葉の秋至れば金に似れども秋去れば地に落つるが如し、二乗の小戒は持する時は果拙く破る時は永く捨つ譬えば瓦器の完くして用うるに卑しく若し破れば永く失するが如し」文。

第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり。

第九に菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り、仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり、此の菩薩戒に於て三有り一には摂善法戒所謂八万四千の法門を習い尽さんと願す、二には饒益有情戒・一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり、三には摂律儀戒一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり、華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子に告げて言く十重の波羅提木叉有り若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず仏の種子に非ず我も亦是くの如く誦す一切の菩薩は已に学し一切の菩薩は当に学し一切の菩薩は今学す」文、菩薩と言うは二乗を除いて一切の有情なり、小乗の如きは戒に随つて異るなり、菩薩戒は爾らず一切の有心に必ず十重禁等を授く一戒を持するを一分の菩薩と云い具に十分を受くるを具足の菩薩と名く、故に瓔珞経に云く「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名け乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒と云う」文。


問うて云く二乗を除くの文如何、答えて云く梵網経に菩薩戒を受くる者を列ねて云く「若し仏戒を受くる者は国王・王子 百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・婬男・婬女・奴婢・八部・鬼神・金剛神・畜生・乃至変化人にもあれ但法師の語を解するは尽く戒を受得すれば皆第一清浄の者と名く」文、此の中に於て二乗無きなり、方等部の結経たる瓔珞経にも亦二乗無し、問うて云く二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別如何、答えて云く所持の戒の名は同じと雖も持する様並に心念永く異るなり、故に戒の功徳も亦浅深あり、問うて云く異なる様如何、答えて云く二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し亦仏菩薩と成らんと思わず但灰身滅智の思を成すなり、譬えば木を焼き灰と為しての後に一塵も無きが如し故に此の戒をば瓦器に譬う破れて後用うること無きが故なり、菩薩は爾らず饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に機を見て五逆十悪を造り同く犯せども此の戒は破れず還つて弥弥戒体を全くす、故に瓔珞経に云く「犯すこと有れども失せず未来際を尽くす」文、故に此の戒をば金銀の器に譬う完くして持する時も破する時も永く失せざるが故なり、問うて云く此の戒を持する人は幾劫を経てか成仏するや、答えて云く瓔珞経に云く「未だ住前に上らざる○若は一劫二劫三劫乃至十劫を経て初住の位の中に入ることを得」文、文の意は凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と云う、然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈輪し十劫を経て不退の位に入り永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云う未だ仏に成らず還つて六道に入れども苦無きなり。

第十に仏界とは菩薩の位に於て四弘誓願を発すを以て戒と為す三僧祗の間六度万行を修し見思・塵沙・無明の三惑を断尽して仏と成る、故に心地観経に云く「三僧企耶大劫の中に具に百千の諸の苦行を修し功徳円満にして法界に遍く十地究竟して三身を証す」文、因位に於て諸の戒を持ち仏果の位に至つて仏身を荘厳す三十二相・八十種好は即ち是の戒の功徳の感ずる所なり、但し仏果の位に至れば戒体失す譬えば華の果と成つて華の形無きが如


し、故に天台の梵網経の疏に云く「仏果に至つて乃ち廃す」文、問うて云く梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造れると並に決定性の二乗とを許すや、答えて云く梵網経に云く「若し戒を受けんと欲する時は師問い言うべし汝現身に七逆の罪を作らざるやと、菩薩の法師は七逆の人の与に現身に戒を受けしむることを得ず」文、此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず、大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙の五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けず若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障ず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」文、此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授け二乗に於ては制止を加うる者なり、二乗戒を嫌うは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うに非ず彼の戒は菩薩も持す可し但二乗の心念を嫌うなり、夫れ以みれば持戒は父母・師僧・国王・主君の一切衆生三宝の恩を報ぜんが為なり、父母は養育の恩深し一切衆生は互に相助くる恩重し国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり、此に依つて善を修すれば恩重し主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養う、設い爾らずと雖も一身を顧る等の恩是重し師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し仏恩は言うに及ばず是くの如く無量の恩分之有り、而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり故に一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり一念も菩薩の心を起すは一切諸仏の後心の功徳を起せるなり、已上四十余年の間の大小乗の戒なり、法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり、先ず相待妙の戒とは四十余年の大小乗の戒と法華経の戒と相対して爾前を麤戒と云い法華経を妙戒と云うて諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌うなり、法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対して麤妙を論ずるを相待妙の戒と云うなり。

問うて云く梵網経に云く「衆生・仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る位大覚に同じ已に実に是諸仏の子なり」文。