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日蓮大聖人・池田大作

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守護国家論  (36/42) 夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く人…
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くること大地微塵より多く人間の生を受くるは爪上の土より少し、乃至四十余年の諸経に値うことは大地微塵よりも多く法華涅槃に値うことは爪上の土より少し上に挙ぐる所の涅槃経の三十三の文を見るに設い一字一句なりと雖も此の経を信ずる者は宿縁多幸なり。

問うて云く設い法華経を信ずと雖も悪縁に随わば何ぞ三悪道に堕せざらんや、答えて云く解心無き者権教の悪知識に遇うて実教を退せば悪師を信ずる失に依つて必ず三悪道に堕す可きなり、彼の不軽・軽毀の衆は権人なり大通結縁の者の三千塵点を経しは法華経を退して権教に遷りしが故なり、法華経を信ずる輩は法華経の信を捨てて権人に随わんより外は世間の悪業に於ては法華の功徳に及ばざる故に三悪道に堕つ可からざるなり。

問うて云く日本国は法華涅槃有縁の地なりや否や、答えて云く法華経第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」七の巻に云く「広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」涅槃経第九に云く「此の大乗経典大涅槃経も亦復是の如し南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」已上経文三千世界広しと雖も仏自ら法華涅槃を以て南方流布の処と定む、南方の諸国の中に於ては日本国は殊に法華経の流布す可き処なり。

問うて云く其の証如何、答えて云く肇公の法華翻経の後記に云く羅什三蔵・須利耶蘇摩三蔵に値い奉りて法華経を授かる時の語に云く「仏日西山に隠れ遺耀東北を照す茲の典東北の諸国に有縁なり汝慎んで伝弘せよ」已上東北とは日本なり西南の天竺より東北の日本を指すなり、故に慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純一なり朝野遠近同じく一乗に帰し緇素貴賤悉く成仏を期す」已上願わくば日本国の道俗選択集の久習を捨てて法華涅槃の現文に依り肇公慧心の日本記を恃みて法華修行の安心を企てよ。

問うて云く法華経修行の者何の浄土を期す可きや、答えて云く法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く「我常


に此の娑婆世界に在り」亦云く「我常に此処に住し」亦云く「我が此土は安穏」文此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在り此の土を捨てて何の土を願う可きや、故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや、故に神力品に云く「若は経巻所住の処若は園中に於ても若は林中に於ても若は樹下に於ても若は僧坊に於ても若は白衣舎にても若は殿堂に在つても若は山谷曠野にても、乃至・当に知るべし是の処は即ち是道場なり」涅槃経に云く「善男子是の大涅槃微妙の経典流布せらるる処は当に知るべし其の地は即ち是れ金剛なり此の中の諸人も亦金剛の如し」已上法華涅槃を信ずる行者は余処に求む可きに非ず此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり。

問うて云く華厳・方等・般若・阿含・観経等の諸経を見るに兜率・西方・十方の浄土を勧む其の上・法華経の文を見るに亦兜率・西方・十方の浄土を勧む何ぞ此等の文に違して但此の瓦礫荊棘の穢土を勧むるや、答えて云く爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり、法華経は亦方便寿量の二品なり寿量品に至つて実の浄土を定むる時此の土は即ち浄土と定め了んぬ、但し兜率・安養・十方の難に至つては爾前の名目を改めずして此の土に於て兜率安養等の名を付く、例せば此の経に三乗の名有りと雖も三乗有らざるが如し「不須更指観経等也」の釈の意是なり、法華経に結縁無き衆生の当世西方浄土を願うは瓦礫の土を楽う者なり、法華経を信ぜざる衆生は誠に分添の浄土無き者なり。

第三に涅槃経は法華経流通の為に之を説き給うことを明さば、問うて云く光宅の法雲法師並に道場の慧観等の碩徳は法華経を以て第四時の経と定め無常の熟蘇味と立つ、天台智者大師は法華涅槃同味と立つと雖も亦捃拾の義を存す二師共に権化なり互に徳行を具せり何を正として我等の迷心を晴らす可きや、答えて曰く設い論師訳者為りと雖も仏教に違して権実二教を判ぜずんば且らく疑を加う可し何に況や唐土の人師たる天台・南岳・光宅・


慧観・智儼・嘉祥・善導等の釈に於てをや、設い末代の学者為りと雖も依法不依人の義を存し本経本論に違わずんば信用を加う可し。

問うて云く涅槃経の第十四巻を開きたるに五十年の諸大乗経を挙て前四味に譬え涅槃経を以て醍醐味に譬う諸大乗経は涅槃経より劣ること百千万倍なりと定め了んぬ、其の上迦葉童子の領解に云く「我今日より始て正見を得たり此よりの前は我等悉く邪見の人と名く」と此の文の意は涅槃経已前の法華等の一切の衆典を皆邪見と云うなり、当に知るべし法華経は邪見の経にして未だ正見の仏性を明らめず、故に天親菩薩の涅槃論に諸経と涅槃と勝劣を定むる時・法華経を以て般若経に同じて同じく第四時に摂したり豈正見の涅槃経を以て邪見の法華経の流通と為んや如何、答て云く法華経の現文を見るに仏の本懐残すこと無し、方便品に云く「今正しく是れ其時なり」寿量品に云く「毎に自ら是の念を作す何を以てか衆生をして無上道に入ることを得・速かに仏身を成就することを得せしめん」と神力品に云く「要を以て之を言えば如来の一切の所有の法、乃至・皆此の経に於て宣示顕説す」已上此等の現文は釈迦如来の内証は皆此の経に尽くし給う其の上多宝並に十方の諸仏来集の庭に於て釈迦如来の已今当の語を証し法華経に如く経無しと定め了んぬ、而るに多宝諸仏・本土に還るの後に但釈迦一仏のみ異変を存じて還つて涅槃経を説いて法華経を卑まば誰人か之を信ぜん、深く此の義を存ぜよ、随つて涅槃経の第九を見るに法華経を流通して説いて云く「是の経・世に出ること彼の菓実の一切を利益し安楽する所多きが如く能く衆生をして仏性を見わさしむ法華の中の八千の声聞の記莂を授かるを得て大菓実を成ずるが如く秋収冬蔵して更に所作無きが如し」と。

此の文の如くんば法華経邪見ならば涅槃経も豈に邪見に非ずや、法華経は大収・涅槃経は捃拾なりと見え了んぬ、涅槃経は自ら法華経より劣るの由を称す法華経の当説の文敢て相違無し、但し迦葉の領解並に第十四の文は