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日蓮大聖人・池田大作

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法華初心成仏抄  (1/14) 嫉妬の思い甚し
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法華初心成仏抄

                    建治三年 五十六歳御作

                    与 岡宮妙法尼

問うて云く八宗・九宗・十宗の中に何か釈迦仏の立て給へる宗なるや、答えて云く法華宗は釈迦所立の宗なり其の故は已説・今説・当説の中には法華経第一なりと説き給う是れ釈迦仏の立て給う処の御語なり、故に法華経をば仏立宗と云い又は法華宗と云う又天台宗とも云うなり、故に伝教大師の釈に云く天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗と云へり、法華より外の経には全く已今当の文なきなり已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云う今説とは無量義経を云う当説とは涅槃経を云う此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり、余宗は仏・涅槃し給いて後・或は菩薩或は人師達の建立する宗なり仏の御定を背きて菩薩・人師の立てたる宗を用ゆべきか菩薩人師の語を背きて仏の立て給へる宗を用ゆべきか又何れをも思い思いに我が心に任せて志あらん経法を持つべきかと思う処に仏是を兼て知し召して末法濁悪の世に真実の道心あらん人人の持つべき経を定め給へり、経に云く「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」文、此の文の心は菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ華厳・阿含・方等・般若経等の真言・禅宗・念仏等の法には依らざれ了義経を持つべし了義経と云うは法華経を持つべしと云う文なり。

問うて云く今日本国を見るに当時五濁の障重く闘諍堅固にして瞋恚の心猛く嫉妬の思い甚しかかる国かかる時には何れの経をか弘むべきや、答えて云く法華経を弘むべき国なり、其の故は法華経に云く「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、瑜伽論には丑寅の隅に大乗・妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり、安然和尚云く「我が日本国」等云云、天竺よりは丑寅の角に此の日本国は当るなり、又慧心僧都の一乗要


決に云く「日本一州・円機純一にして朝野遠近・同く一乗に帰し緇素貴賤悉く成仏を期せん」云云、此の文の心は日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西・みちをく遠きも近きも法華一乗の機のみ有りて上も下も貴も賤も持戒も破戒も男も女も皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云う文なり、譬えば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如く日本国は純に法華経の国なり、而るに法華経は元よりめでたき御経なれば誰か信ぜざると語には云うて而も昼夜朝暮に弥陀念仏を申す人は薬はめでたしとほめて朝夕毒を服する者の如し、或は念仏も法華経も一なりと云はん人は石も玉も上臈も下臈も毒も薬も一なりと云わん者の如し、其の上法華経を怨み嫉み悪み毀り軽しめ賤む族のみ多し、経に云く「一切世間多怨難信」又云く「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」の経文少しも違はず当れり、されば伝教大師の釈に云く「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言良に以有るなり」と、此等の文釈をもつて知るべし、日本国に法華経より外の真言・禅・律宗・念仏宗等の経教・山山・寺寺・朝野遠近に弘まるといへども正く国に相応して仏の御本意に相叶ひ生死を離るべき法にはあらざるなり。

問うて云く華厳宗には五教を立て余の一切の経は劣れり華厳経は勝ると云ひ、真言宗には十住心を立て余の一切経は顕経なれば劣るなり真言宗は密教なれば勝れたりと云う、禅宗には余の一切経をば教内と簡いて教外別伝不立文字と立て壁に向いて悟れば禅宗独り勝れたりと云う、浄土宗には正雑・二行を立て法華経等の一切経をば捨閉閣抛し雑行と簡ひ浄土の三部経を機に叶ひめでたき正行なりと云う、各各我慢を立て互に偏執を作す何れか釈迦仏の御本意なるや、答えて云く宗宗・各別に我が経こそ・すぐれたれ余経は劣れりと云いて我が宗吉と云う事は唯是れ人師の言にて仏説にあらず、但し法華経計りこそ仏五味の譬を説きて五時の教に当て此の経の勝れたる由を説き、或は又已今当の三説の中に仏になる道は法華経に及ぶ経なしと云う事は正しき仏の金言なり、然るに


我が経は法華経に勝れたり我が宗は法華宗に勝れたりと云はん人は下臈が上臈を凡下と下し相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云わんが如し何ぞ大罪に行なはれざらんや、法華経より余経を下す事は人師の言にあらず経文分明なり、譬えば国王の万人に勝れたりと名乗り侍の凡下を下臈と云わんに何の禍かあるべきや、此の経は是れ仏の御本意なり天台・妙楽の正意なり。

問うて云く釈迦一期の説法は皆衆生のためなり衆生の根性万差なれば説法も種種なり何れも皆得道なるを本意とす、然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり人の有縁の経は我が為には無縁なり故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には観経等はめでたし法華経等は無用なり、法華によりて成仏得道なるべき者の為には余経は無用なり法華経はめでたし、四十余年・未顕真実と説くも雖示種種道・其実為仏乗と云うも正直捨方便・但説無上道と云うも法華得道の機の前の事なりと云う事世こぞつてあはれ然るべき道理かななんど思へり如何心うべきや、若し爾らば大乗・小乗の差別もなく権教・実教の不同もなきなり何れをか仏の本意と説き何れをか成仏の法と説き給えるや甚だいぶかし・いぶかし、答えて云く凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども衆生の機縁・万差にして・ととのをらざりしかば三七日の間・思惟し四十余年の程こしらへ・おおせて最後に此の妙法を説き給う、故に「若し但仏乗を讃せば衆生・苦に没在し是の法を信ずること能わず、法を破して信ぜざるが故に三悪道に墜ちん」と説き「世尊の法は久くして後要らず当に真実を説きたまうべし」とも云へり、此の文の意は始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども仏法の気分もなき衆生は信ぜずして定めて謗りを至さん、故に機をひとしなに誘へ給うほどに初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき最後に法華経をとき給う時、四十余年の座席にありし身子・目連等の万二千の声聞・文殊・弥勒等の八万の菩薩・万億の輪王等・梵王・帝釈等の無量の天人・各爾前に聞きし処の法をば如来の無量の知見を失えりと云云、法華経を聞いては無上の宝聚求め