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日蓮大聖人・池田大作

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四条金吾殿御書  (1/2) 食法がき
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四条金吾殿御書

                    文永八年七月 五十歳御作

雪のごとく白く候白米一斗・古酒のごとく候油一筒・御布施一貫文、態使者を以て盆料送り給い候、殊に御文の趣有難くあはれに覚え候。

抑盂蘭盆と申すは源目連尊者の母青提女と申す人慳貪の業によりて五百生・餓鬼道にをち給いて候を目連救ひしより事起りて候、然りと雖も仏にはなさず其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし、霊山八箇年の座席にして法華経を持ち南無妙法蓮華経と唱えて多摩羅跋栴檀香仏となり給い此の時母も仏になり給う、又施餓鬼の事仰せ候、法華経第三に云く「如従飢国来忽遇大王膳」云云、此の文は中根の四大声聞・醍醐の珍膳をおとにも・きかざりしが今経に来つて始めて醍醐の味をあくまでになめて昔しうへたる心を忽にやめし事を説き給う文なり、若し爾らば餓鬼供養の時は此の文を誦して南無妙法蓮華経と唱えてとぶらひ給うべく候。

総じて餓鬼にをいて三十六種類・相わかれて候、其の中に鑊身餓鬼と申すは目と口となき餓鬼にて候、是は何なる修因ぞと申すに此の世にて夜討・強盗などをなして候によりて候、食吐餓鬼と申すは人の口よりはき出す物を食し候・是も修因上の如し、又人の食をうばふに依り候、食水餓鬼と云うは父母孝養のために手向る水などを呑む餓鬼なり、有財餓鬼と申すは馬のひづめの水をのむがきなり是は今生にて財ををしみ食をかくす故なり、無財がきと申すは生れてより以来飲食の名をも・きかざるがきなり、食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人・我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり、当世の僧を見るに人に・かくし


て我一人ばかり供養をうくる人もあり是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり、是は未来には牛頭と云う鬼となるべし、又人にしらせて供養をうくるとも欲心に住して人に施す事なき人もあり・是は未来には馬頭と云う鬼となり候、又在家の人人も我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをば・とぶらはずして我は衣服飲食にあきみち牛馬眷属・充満して我が心に任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん、僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人は・まれなり、定めて天の日月・地の地神いかり・いきどをり給いて不孝の者とおもはせ給うらん形は人にして畜生のごとし人頭鹿とも申すべきなり、日蓮此の業障をけしはてて未来は霊山浄土にまいるべしと・おもへば種種の大難・雨のごとくふり雲のごとくに・わき候へども法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず、かかる日蓮が弟子檀那となり給う人人・殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なりいかでか餓鬼道におち給うべきや、定めて釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん、是こそ四条金吾殿の母よ母よと同心に頭をなで悦びほめ給うらめ、あはれ・いみじき子を我はもちたりと釈迦仏と・かたらせ給うらん、法華経に云く「若し善男子善女人有つて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄餓鬼畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん、所生の処には常に此の経を聞かん、若し人天の中に生れば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん」と云云、此の経文に善女人と見へたり妙法聖霊の事にあらずんば誰が事にやあらん、又云く「此の経は持つこと難し若し暫も持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり是の如きの人は諸仏の歎めたもう所」と云云、日蓮讃歎したてまつる事は・もののかずならず、諸仏所歎と見えたり、あらたのもしや・あらたのもしやと・信心をふかくとり給うべし・信心をふかくとり給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

  七月十二日                     日蓮花押

   四条金吾殿御返事


四条金吾殿御消息

度度の御音信申しつくしがたく候、さても・さても去る十二日の難のとき貴辺たつのくちまで・つれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ、日蓮過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくか・ありけむ、或は山にすて海にすて或は河或はいそ等・路のほとりか、然れども法華経のゆへ題目の難にあらざれば捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず、成仏のためならざれば捨てし海・河も仏土にもあらざるか。

今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや、其の故は・すでに法華経の故なるがゆへなり、経に云く「十方仏土中唯有一乗法」と此の意なるべきか、此の経文に一乗法と説き給うは法華経の事なり、十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり除仏方便説と見えたり、若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、娑婆世界の中には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか、神力品に云く「若於林中若於園中若山谷曠野是中乃至而般涅槃」とは是か。

かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ、又かまくらどのの仰せとて内内・佐渡の国へ・つかはすべき由