Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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開目抄上  (19/24) 畜生すら猶恩をほうず
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薬をなめて燋種の生い破石の合い・枯木の華菓なんどならんとせるがごとく仏になるべしと許されて・いまだ八相をとなえず・いかでか此の経の重恩をば・ほうぜざらん、若しほうぜずば彼彼の賢人にも・をとりて不知恩の畜生なるべし、毛宝が亀はあをの恩をわすれず昆明池の大魚は命の恩をほうぜんと明珠を夜中にささげたり、畜生すら猶恩をほうず何に況や大聖をや、阿難尊者は斛飯王の次男・羅睺羅尊者は浄飯王の孫なり、人中に家高き上証果の身となつて成仏を・をさへられたりしに八年の霊山の席にて山海慧・蹈七宝華なんと如来の号をさづけられ給う、若し法華経ましまさずば・いかに・いえたかく大聖なりとも誰か恭敬したてまつるべき、夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主・土民の帰依なり、しかれども政あしくして世をほろぼせしかば今に・わるきものの手本には桀紂・桀紂とこそ申せ、下賤の者・癩病の者も桀紂のごとしと・いはれぬればのられたりと腹たつなり、千二百・無量の声聞は法華経ましまさずば誰か名をも・きくべき其の音をも習うべき、一千の声聞・一切経を結集せりとも見る人よもあらじ、まして此等の人人を絵像・木像にあらはして本尊と仰ぐべしや、此偏に法華経の御力によつて一切の羅漢帰依せられさせ給うなるべし、諸の声聞・法華を・はなれさせ給いなば魚の水をはなれ猿の木をはなれ小児の乳をはなれ民の王を・はなれたるが・ごとし、いかでか法華経の行者をすて給うべき、諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり、十方世界すら猶照見し給うらん、何に況や此の娑婆世界の中法華経の行者を知見せられざるべしや、設い日蓮・悪人にて一言・二言・一年・二年・一劫・二劫・乃至百千万億劫・此等の声聞を悪口・罵詈し奉り刀杖を加えまいらする色なりとも法華経をだにも信仰したる行者ならばすて給うべからず、譬へば幼稚の父母をのる父母これを・すつるや、梟鳥が母を食う母これをすてず・破鏡父をがいす父これにしたがふ、畜生すら猶かくのごとし大聖・法華経の行者を捨つべしや、されば四大声聞の領解の文に云く「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に阿羅漢なり諸の世間


天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし、世尊は大恩まします希有の事を以て憐愍教化して我等を利益し給う、無量億劫にも誰か能く報ずる者あらん手足をもつて供給し頭頂をもつて礼敬し一切をもつて供養すとも皆報ずること能わじ、若しは以て頂戴し両肩に荷負して恒沙劫に於て心を尽して恭敬し又美膳・無量の宝衣及び諸の臥具・種種の湯薬を以てし、牛頭栴檀及び諸の珍宝を以て塔廟を起て宝衣を地に布き斯くの如き等の事を以用て供養すること恒沙劫に於てすとも亦報ずること能わじ」等云云。

諸の声聞等は前四味の経経にいくそばくぞの呵嘖を蒙り人天・大会の中にして恥辱がましき事・其の数をしらず、しかれば迦葉尊者の渧泣の音は三千をひびかし須菩提尊者は亡然として手の一鉢をすつ、舎利弗は飯食をはき富楼那は画瓶に糞を入ると嫌わる、世尊・鹿野苑にしては阿含経を讃歎し二百五十戒を師とせよなんど慇懃にほめさせ給いて、今又いつのまに我が所説をば・かうはそしらせ給うと二言・相違の失とも申しぬべし、例せば世尊・提婆達多を汝愚人・人の唾を食うと罵詈せさせ給しかば毒箭の胸に入るがごとく・をもひて・うらみて云く「瞿曇は仏陀にはあらず我は斛飯王の嫡子・阿難尊者が兄・瞿曇が一類なり、いかにあしき事ありとも内内・教訓すべし、此等程の人天・大会に此程の大禍を現に向つて申すもの大人・仏陀の中にあるべしや、されば先先は妻のかたき今は一座のかたき今日よりは生生・世世に大怨敵となるべし」と誓いしぞかし、此れをもつて思うに今諸の大声聞は本と外道・婆羅門の家より出でたり、又諸の外道の長者なりしかば諸王に帰依せられ諸檀那にたつとまる、或は種姓・高貴の人もあり或は富福・充満のやからもあり、而るに彼彼の栄官等をうちすて慢心の幢を倒して俗服を脱ぎ壊色の糞衣を身にまとひ白払・弓箭等をうちすてて一鉢を手ににぎり貧人・乞丐なんどの・ごとくして世尊につき奉り風雨を防ぐ宅もなく身命をつぐ衣食乏少なりし・ありさまなるに五天・四海・皆外道の弟子・檀那なれば仏すら九横の大難にあひ給ふ、所謂提婆が大石をとばせし阿闍世王の酔象を放ちし阿耆多王の馬麦・婆羅


門城のこんづ・せんしや婆羅門女が鉢を腹にふせし、何に況や所化の弟子の数難申す計りなし、無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼は提婆にがいせられ迦廬提尊者は馬糞にうづまれ目犍尊者は竹杖にがいせらる、其の上六師同心して阿闍世・婆斯匿王等に讒奏して云く「瞿曇は閻浮第一の大悪人なり、彼がいたる処は三災七難を前とす、大海の衆流をあつめ大山の衆木をあつめたるが・ごとし、瞿曇がところには衆悪をあつめたり、所謂迦葉・舎利弗・目連・須菩提等なり、人身を受けたる者は忠孝を先とすべし、彼等は瞿曇にすかされて父母の教訓をも用いず、家をいで王法の宣旨をも・そむいて山林にいたる、一国に跡をとどむべき者にはあらず、されば天には日月・衆星・変をなす地には衆夭さかんなりなんど・うつたう、堪べしとも・おぼえざりしに又うちそうわざわいと仏陀にもうちそい・がたくて・ありしなり、人天大会の衆会の砌にて時時呵嘖の音をききしかば・いかにあるべしとも・おぼへず只あわつる心のみなり、其の上大の大難の第一なりしは浄名経の「其れ汝に施す者は福田と名けず汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云、文の心は仏・菴羅苑と申すところに・をはせしに梵天・帝釈・日月・四天・三界諸天・地神・竜神等・無数恒沙の大会の中にして云く須菩提等の比丘等を供養せん天人は三悪道に堕つべし、此等をうちきく天人・此等の声聞を供養すべしや、詮ずるところは仏の御言を用つて諸の二乗を殺害せさせ給うかと見ゆ、心あらん人人は仏をも・うとみぬべし、されば此等の人人は仏を供養したてまつりしついでに・こそ・わづかの身命をも扶けさせ給いしか、されば事の心を案ずるに四十余年の経経のみとかれて法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき現身に餓鬼道にこそ・をはすべけれ。

而るに四十余年の経経をば東春の大日輪・寒冰を消滅するがごとく無量の草露を大風の零落するがごとく一言一時に未顕真実と打ちけし、大風の黒雲をまき大虚に満月の処するがごとく青天に日輪の懸り給うがごとく世尊