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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (11/41) 釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり…
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無きなり、疑の字は元品の無明の事なり此の疑を断つを信とは云うなり、釈に云く無疑曰信と云えり身子は此の疑無き故に華光仏と成れり、今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり、疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり、疑は心法にあり・網は色法にあり、此の経を持ち奉り信ずれば色心の二法共に悉く除くと云う事なり、此の皆已の已の字は身子尊者・広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり、身子・妙法実相の理を聴聞して心懐大歓喜せしなり、所詮舎利弗尊者程の智者・法華経へ来つて華光仏となり、疑網を断除せり、何に況んや末法当時の権人謗法の人人此の経に値わずんば成仏あらんや云云。

一以本願故説三乗法の事

仰に云く此の経文は身子尊者・成道の国・離垢世界にて三乗の法は悪世には非ず、然りと雖も身子本願の故に説くと云えり、其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉じられて、其の時・菩薩の行を退転したり、此の菩薩の行を百劫立てけるに、六十劫なして今四十劫たらざりき、此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり、上品浄土・不須開漸なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以本願故の故にて三乗の法を説くなり、此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり、此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり、重重の義勢之れ在り輙く心得難きの事なり、或は欲怖地前の意、或は権者退云云、所詮は六住退とは六根・六境に菩薩の行を取られたりと云う事なり、之を以て之を思うに末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし、所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障礙せらるる・豈眼を抉り取らるるに非ずや、所詮彼の乞眼の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に乞いて蹈みつぶして捨てたり、全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり、只だ退転せしめん為な


り、身子は一念菩薩の行を立ててかかる事に値えり、向後は菩薩の行をば立つ可からず二乗の行を立つ可しと云つて後悔せし故に成仏の日・説三乗法するなり、所詮乞眼婆羅門の責を堪えざるが故なり、法華経の行者・三類の強敵を堪忍して妙法の信心を捨つ可からざるなり信心を以て眼とせり云云。

一有大長者の事

仰に云く此の長者に於いて天台大師・三の長者を釈し給えり、一には世間の長者・二には出世の長者・三には観心の長者是なり、此の中に出世観心の長者を以て、此の品の長者とせり、長者とは釈迦如来の事なり、観心の長者の時は一切衆生なり、所詮法華経の行者は男女共に長者なり、文句の五に委しく釈せり、末法当今の長者と申すは日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり、されば三の長者を釈する時、文句五に云く、二に位号を標するに三と為す、一は世間の長者・二は出世の長者・三は観心の長者なり、世に十徳を備う、一には姓貴・二には位高・三には大富・四には威猛・五には智深・六には年耆・七には行浄・八には礼備・九には上歎・十には下帰なり云云、又云く、出世の長者は、仏は三世の真如実際の中より生ず、功成り、道著われて、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具に満せり、十力雄猛にして、魔を降し外を制す、一心の三智通達せずと云うこと無し、早く正覚を成じて、久遠なること斯くの如し、三業智に随つて、運動して失無し、仏の威儀を具して、心大なること海の如し、十方の種覚・共に称誉する所なり、七種の方便・而も来つて依止す、是を出世の仏大長者と名く、三に観心とは、観心の智実相より出で生じて仏家にあり、種性真正なり、三惑起らず、未だ真を発さずと雖も是れ如来の衣を着れば、寂滅忍と称す、三諦に一切の功徳を含蔵す、正観の慧・愛見を降伏す、中道双べ照して権実並に明なり、久く善根を積みて・能く此の観を修す、此の観七方便の上に出でたり、此の観・心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、是れ深信解の相諸仏皆歓喜して持法の者を歎美したもう、天竜・四部・恭敬供養す、下の文に云く、仏子是の地に住すれば、即ち


是れ仏受用し給い、経行し及び坐臥し給わんと、既に此の人を称して仏と為す、豈観心の長者と名けざらんやと此の釈分明に観心の長者に十徳を具足すと釈せり、所謂引証の文に、分別功徳品の則是仏受用の文を引けり、経文には仏子住此地とあり、此の字を是の字にうつせり、経行若坐臥の若を及の字にかえたり、又法師品の文を引けり、所詮仏子とは法華経の行者なり、此地とは実相の大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉く仏の振舞なり、我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや、既称此人為仏の六字に心を留めて案ずべきなり云云。

一多有田宅の事

仰に云く田宅とは、長者の財宝なり、所詮田と云うは命なり、宅とは身なり、文句の五に田宅をば身命と釈せり、田は米なり、米は命をつぐ、宅は身をやどす是は家なり、身命の二を安穏にするより外に財宝は無きなり、法門に約すれば田は定・宅は慧なり、仍つて定は田地の如し、慧は万法の如し、我等一心の田地より諸法の万法は起れり、法華一部方寸知るべしと釈して八年の法華も一心が三千と開きたるなり、所詮田は定なれば妙の徳、宅は慧の徳なれば法の徳、又は本迹両門なり、止観の二法なり、教主釈尊・本迹両門の田宅を以つて一切衆生を助け給えり、田宅は我等衆生の色心の二法なり、法華経に値い奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉る時・煩悩即菩提・生死即涅槃と体達するなり、豈多有田宅の長者に非ずや、多有と云う心は心法に具足する心数なり、色法に具足する所作なり、然らば多有田宅の文は一念三千の法門なり、其の故は一念は定なり、三千は慧なり、既に釈に云く、田宅は別譬なり、田は能く命を養う、禅定の般若を資するに譬う、宅は身を栖ます可し、実境の智の所託と為るに譬う云云、此の釈分明なり、田宅は身命なり、身命は即ち南無妙法蓮華経なり、此