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日蓮大聖人・池田大作

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本因妙抄  (2/8) 因果一念の宗
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「雖脱在現・具騰本種」云云次に体の四重とは一に三諦隔歴の体・爾前権教なり、二に理性円融の体・迹門十四品なり、三に三千本有の体・本門十四品なり、四に自性不思議の体・我が内証の寿量品・事行の一念三千なり、次に宗の四重とは一に因果異性の宗・方便権教なり、二に因果同性の宗・是れ迹門なり、三に因果並常の宗・即ち本門なり、四に因果一念の宗・文に云く「芥爾も心有れば即ち三千を具す」と、是れ即ち末法純円・結要付属の妙法なり、云云、次に用の四重とは一に神通幻化の用・今経已前に明かす所の仏・菩薩・出仮利生の事、二に普賢色身の用・即ち一身の中に於て十界を具する事なり本迹一代五時に亘る、三に無作常住の用・証道八相有り無作自在の事なり、四に一心の化用・或説己身等なり、次に教の四重とは一には但顕隔理の教・権小なり、二には教即実理の教・迹門なり、三には自性会中の教・応仏の本門なり、四には一心法界の教・寿量品の文の底の法門・自受用報身如来の真実の本門・久遠一念の南無妙法蓮華経・雖脱在現具騰本種の勝劣是なり。

第四に八重浅深の一面なり、名の八重とは一に名体永別の名・二に名体不離の名・三に従体流出の名・四に名体具足の名・五に本分常住の名・六に果海妙性の名・七に無相不思議の名・八に自性己己の名・乃至教知る可し云云、文に任せて思惟す可きなり。

第五に還住当文の一面、四八の浅深を以て本迹勝劣を知る可し。

第六に但入己心の一面、始め大法東漸より第十の判教に至るまで文の生起を閣おき一向に心理の勝劣に入れて正意を成ず可し、謂く大法とは即ち行者の己心の異名なり云云、釈の意は文義の広博を離れて首題の理を専にすと釈し給うなり。

第七に出離生死の一面、心は一代応仏の寿量品を迹と為し内証の寿量品を本と為し釈尊久遠名字即の身と位とに約して南無妙法蓮華経と唱え奉る是を出離生死の一面と名く、本迹約身約位の釈之を思う可き者なり已上。


玄文畢る。

文句の七面の决とは、一に依名の一面・其の義上の如し、二に感応の一面・三時弘経に亘る可し、爾前迹門の正像二千年弘経の感応より本門末法弘通の感応は真実真実勝るなり、三に四教の一面・四に五時の一面・五に本迹の一面・六に体用の一面・七に入己心の一面・悉く皆其の心前に同じ、智威大師の伝には玄義文句の両部には爾前迹門に各三十重の浅深を以て口决し給えり、具には伝教大師七面决の如し。

又摩訶止観一部には十重顕観を立てて是を通じ給えり、一は待教立観・爾前・本・迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ、文に云く円頓者初縁実相と云云、迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり、是を不思議実理の妙観と申すなり、二に廃教立観・心は権教並に迹執を捨て本門首題の理を取つて事行に用いよとなり、三に開教顕観・文に云く一切諸法・本是仏法・三諦の理を具するを名けて仏法と為す云何んぞ教を除かん云云文意は観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲・是なり、四に会教顕観・教相 の法華を捨てて観心の法華を信ぜよと、五に住不思議顕観・文に云く理は造作に非ず故に天真と曰う・証智円明なるが故に独朗と云う云云、釈の意は口唱首題の理に造作無し、今日熟脱の本迹二門を迹と為し久遠名字の本門を本と為す、信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く。

問うて曰く前代に此の法門を知れる人之有りや、答えて曰く之有り、求めて云く誰人ぞや、示して云く釈尊是なり、尋ねて云く仏を除き奉つて余に之を知れる人師論師有りや、答えて曰く天台の云く「天親竜樹・内鑒冷然・外適時宜」と、今日南無妙法蓮華経は南岳・天台・妙楽・伝教の内鑒冷然・外適時宜なり、内鑒冷然外適時宜の修行の日は本迹一致なり、有智無智を嫌わず円頓者初縁実相の理は造作に非ざる故に天真と曰う、証智円明の故に


独朗と曰うと云つて理位観行に趣かしめ利益を為し末法の時を待つ者なり、故に天台云く「但当時大利益を獲るのみに非ず後五百歳遠く妙道に霑う」と云云、天台・章安・妙楽・伝教等の大聖は内証は本迹勝劣・外用は本迹一致なり、其の故は教相も観心も相似観行解了の人師・時機亦像法なり、付属は即妄授余人・御身も亦迹化の衆・観音・妙音・文殊・薬王等の化身なり、今末法は本化の薩埵・上行等の出世の境・本門流宣の時尅なり、何ぞ理観を用いて事行を修せざらんや、予が所存は内証・外用共に本迹勝劣なり、若し本迹一致と修行せば本門の付属を失う物怪なり。

本迹の不同は処処に之を書す、然りと雖も宿習拙き者本迹に迷倒せんか若し本迹勝劣を知らずんば未来の悪道最も不便なり宿業を恥じず還つて予を恨む可きか、我が弟子等の中にも天台伝教の解了の理観を出でず、本迹に就て一往勝劣再往一致の謬義を存して自他を迷惑せしめんの条宿習の然らしむる所か、閻浮提第一の秘事為りと雖も万年救護の為に之を記し留る者なり、我が未来に於て予が仏法を破らん為に一切衆生の元品の大石・第六天の魔王・師子身中の蝗蟲と成つて名を日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して多の衆生を当に悪道に引くべし、若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜く予が正義に随うべし、正義とは本迹勝劣の深秘・具騰本種の実理なり、日蓮一期の大事なれば弟子等にも朝な夕なに教え亦一期の所造等悉く此の義なり、然りと雖も迹執を出でず・或は軽見惑或は蔑思惑或は癡塵沙惑或は迷無明惑、故に日蓮が立義を用いざるか、予が教相・観心は理即・名字・愚悪愚見の為なり。

日蓮は名字即の位弟子檀那は理即の位なり、上行所伝結要付属の行儀は教観判乗・皆名字即・五味の主の修行なり、故に教相の次第・要用に依る可し唯大綱を存する時は余は網目を事とせず彼は網目・此れは大綱・彼は網目の教相の主・此れは大綱・首題の主・恐くは日蓮の行儀には天台伝教も及ばず、何に況や他師の行儀に於てをや、