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日蓮大聖人・池田大作

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十法界事  (5/7) 当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く…
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身の断惑なりと知らず、三乗四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりと雖も互に界界を隔つ而も皆是れ一体なり、昔の経は二乗は但自界の見思を断除すると思うて六界の見思を断ずることを知らず菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず、真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生なり、若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず是くの如く説くと雖も迹門は但九界の情を改め十界互具を明す故に即ち円仏と成るなり、爾前当分の益を嫌うこと無きが故に「三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我身を見る」と説けり又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏が本懐なり故に「彼の土に於いて是の経を聞くことを得」と説く、既に「彼の土に聞くことを得」と云う故に知んぬ爾前の諸経には方便土無し故に実には実報並に常寂光も無し、菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を仮立す然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出ず可からず、尚下劣の方便土を明さず況や勝れたる実報寂光を明さんや、実に見思を断ぜば何ぞ方便を明さざらん菩薩実に実報・寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無らん、但断無明と云うが故に仮りに実報寂光を立つと雖も而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す、然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざ


れば有名無実なり。

故に涌出品に至つて爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫・半日の如しと謂えり」と説く是れ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短・不二の義に迷うが故なり、爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起るが如し未だ久遠を知らざるを以て惑者の本と為すなり、故に四十一品断の弥勒・本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず、既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得れば何ぞ等覚の菩薩を知らざらん、設い等覚の菩薩を知らざるも争でか当機・結縁の衆を知らざらん乃ち不識一人の文は最も未断三惑の故か、是を以て本門に至つては則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加え又天人・修羅に摂し「貪著五欲・妄見網中・為凡夫顛倒」と説き、釈の文には「我坐道場・不得一法」と云う蔵通両仏の見思断も別円二仏の無明断も並に皆見思無明を断ぜず故に随他意と云う、所化の衆生三惑を断ずと謂えるは是れ実の断に非ず答の文に開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか、天台は有無共に破し給うなり、開善は爾前に於て無声聞を判じ光宅は法華に於て有声聞を判ず故に有無共に難有り、天台は「爾前には則ち有り今経には則ち無し所化の執情には則ち有り長者の見には則ち無し」此くの如きの破文皆是れ爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難には非ざるなり、「但し七方便並に究竟の滅に非ず又但し心を観ずと云わば則ち理に称わず」との釈は円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅・即不称理」と云うなりと云うは金錍論には「偏に清浄の真如を指す尚小の真を失えり仏性安んぞ在らん」と云う釈をば云何が会す可き、但し此の尚失小真の釈は常には出だす可からず最も秘蔵す可し、但し「妙法蓮華経皆是真実」の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りと云うは此れは是れ迹門を爾前に対して真実と説くか、而も未だ久遠実成を顕さず是れ則ち彼の未顕真実の分域なり所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを仏の答えたもうに未顕真実の言を以てす、又涌出品の中に弥勒疑つて


云く「如来太子為りし時釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、乃至四十余年を過ぐ」已上仏答えて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして三菩提を得たりと謂えり我実に成仏してより以来」已上、我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや是の故に記の九に云く「昔七方便より誠諦に至るまでは七方便の権と言うは且く昔の権に寄す若し果門に対すれば権実倶に是れ随他意なり」已上、此の釈は明かに知んぬ迹門をも尚随他意と云うなり、寿量品の皆実不虚を天台釈して云く「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」已上、記の九に云く「故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり」已上、迹門既に虚なること論に及ぶ可からず但し皆是真実とは若し本門に望むれば迹は是れ虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず故に本迹両門倶に真実と言うなり、例せば迹門法説の時の譬説因縁の二周も此の一座に於て聞知せざること無し故に名けて顕と為すが如し、記の九に云く「若し方便教は二門倶に虚なり因門開し竟りて果門に望むれば則ち一実一虚なり本門顕れ竟れば則ち二種倶に実なり」已上、此の釈の意は本門未だ顕れざる以前は本門に対すれば尚迹門を以て名けて虚と為す若し本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕るるなり、一切衆生の始覚を名けて迹門の円因と言い一切衆生の本覚を名けて本門の円果と為す修一円因感一円果とは是なり、是くの如く法門を談ずるの時迹門・爾前は若し本門顕れずんば六道を出でず何ぞ九界を出でんや。