Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (27/41) 世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を…
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を切るに非ずや何に況や持たんをや、伝教大師云く法華経を讚むると雖も還つて法華の心を死すとは是なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る人は、読持此経の人なり、豈是真仏子に非ずや淳善地は寂光土に非ずや、是真仏子の子の字は十界の衆生なり、所詮此の子の字は法華経の行者に限る、悉是吾子の子は孝不孝を分別せざる子なり、我等皆似仏子の子は中根の声聞・仏子に似たりと説かれたり、為治狂子故の子は、久遠の下種を忘れたれば物にくるう子なり、仍つて釈尊の御子にも物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり、所謂法華経の行者・真実の釈尊の御子なりと、釈迦・多宝・分身・三千三百万億那由佗の世界に充満せる諸仏の御前にして孝・不孝の子を定めをき給えり、父の業をつぐを以て子とせり、三世の諸仏の業とは南無妙法蓮華経是なり、法師品に行如来事と説けり云云、法華経は母なり釈尊は父なり我等衆生は子なり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生み給う文、菩薩とは法華経の行者なり、法師品に云く在家出家行菩薩道云云。

一非口所宣非心所測の事

仰に云く非口所宣は色法・非心所測は心法なり、色心の二法を以て大海にして教化したる衆生を宣測するに非ずと云えり、末に至つては広導諸群生と説かれたり云云。

一不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事

仰に云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥にそまざるが如し、此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり、地とは法性の大地なり所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し、但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり、世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり、所詮蓮華は水をはなれて生長せず水とは南無妙法蓮華経是なり、本化の菩薩は蓮華の如く過去久遠より已来・本法所持の菩薩なり蓮華在水とは是なり、所詮此の水とは我等行者の信心なり、蓮華は本因本果の妙


法なり信心の水に妙法蓮華は生長せり、地とは我等衆生の心地なり涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり云云。

一願仏為未来演説令開解の事

仰に云く此の文は弥勒菩薩等末法当今の為に我従久遠来教化是等衆の言を演説令開解せしめ給えと請じ奉る経文なり、此の請文に於て寿量品は顕れたり五百塵点の久遠の法門是なり、開解とは教主釈尊の御内証に此の分ををさえ給うを願くは開かしめ給え同じく一会の大衆の疑をも解かしめ給えと請するなり、此の開解の語を寿量品にして汝等当信解と誡め給えり、若し開解し給わずんば大衆皆法華経に於て疑惑を生ず可しと見給えり、疑を生ぜば三悪道に堕つべしと既に弥勒菩薩申されたり、此の時寿量品顕れずんば即当堕悪道すべきなり寿量品の法門大切なるは是なり、さて此の開解の開に於て二あり、迹門の意は諸法を実相の一理と会したり、さては諸法を実相と開きて見れば十界悉く妙法実相の一理なりと開くを開仏智見と説けり、さて本門の意は十界本有と開いて始覚のきづなを解きたり、此の重を開解と申されたり仍つて演説の二字は釈尊・開解の両字は大衆なり、此の演説とは寿量品の久遠の事なり、終に釈尊・寿量品を説かせ給いて一切大衆の疑惑を破り給えり云云。

一譬如良医智慧聰達の事

仰に云く良医とは教主釈尊・智慧とは八万法蔵・十二部経なり聡達とは三世了達なり薬とは妙法の良薬なり、さて寿量品の意は十界本有と談ぜりされば此の薬師とは一切衆生の事なり、智慧とは万法己己の自受用報身の振舞なり聡達とは自在自在に振舞うを聡達とは云うなり、所詮末法・当今の為の寿量品なれば法華経の行者の上の事なり、此の智慧とは南無妙法蓮華経なり、聡達とは本有無作三身なりと云う事なり、元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり、智とは一切衆生の力なり、慧とは一切衆生の言語音声なり、故に偈頌に云く我智力如是慧光照無量と云えり云云。


一一念信解の事

仰に云く此の経文は一念三千の宝珠を納めたる函なり此れは現在の四信の初の一念信解なり、さて滅後の五品の初の十心具足初随喜品も一念三千の宝を積みたる函なり、法華経の骨髄・末法に於て法華経の行者の修行の相貌分明なり、所詮信と随喜とは心同じなり随喜するは信心なり信心するは随喜なり一念三千の法門は信心随喜の函に納りたり、又此の函とは所謂南無妙法蓮華経是なり又此の函は我等が一心なり此の一心は万法の総体なり総体は題目の五字なり、一念三千と云うが如く一心三千もあり釈に云く介爾も心有れば即ち三千を具すと、又宝函とは我等が色心の二法なり。本迹両門・生死の二法・止観の二法なり所詮信心の函に入れたる南無妙法蓮華経の函なり云云。

一見仏聞法信受教誨の事

仰に云く此の経文は一念随喜の人は五十の功徳を備うべし、然る間見仏聞法の功徳を具足せり、此の五十展転の五十人の功徳を随喜功徳品には説かれたり、仍つて世世・生生の間見仏聞法の功徳を備えたり、所詮末法に入つては仏を見るとは寿量品の釈尊・法を聞くとは南無妙法蓮華経なり、教誨とは日蓮等の類い教化する所の諸宗無得道の教誡なり、信受するは法華経の行者なり、所詮・寿量開顕の眼の顕れては、此の見仏は無作の三身なり、聞法は万法己己の音声なり、信受教誨は本有随縁真如の振舞なり、是れ即ち色心の二法なり、見聞とは色法なり、信受は信心領納なれば心法なり、所謂色心の二法に備えたる南無妙法蓮華経是なり云云。

一若復有人以七宝満是人所得其福最多の事

仰に云く此の経文は七宝を以て三千大千世界に満てて四聖を供養せんよりは法華経の一偈を受持し奉らんにはをとれりと説かれたり、天台大師は生養成栄の四の義を以て、法華経の功徳を釈し給えり、所詮末法に入つては題目の五字即ち是なり、此の妙法蓮華経の五字は万法能生の父母なり、生養成栄も亦復是くの如きなり、仍て釈には法を以つて本と為すと釈せり、三世十方の諸仏は、妙法蓮