Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

下山御消息  (7/22) 身には三衣を皮の如くはなつ事なし
349

余が口を塞がんとはげみしなり、又経に云く「汝を供養する者は三悪道に堕つ」等云云、在世の阿羅漢を供養せし人尚三悪道まぬかれがたし、何に況や滅後の誑惑の小律の法師原をや、小戒の大科をばこれを以て知んぬ可し、或は又驢乳にも譬えたり還つて糞となる、或は狗犬にも譬えたり大乗の人の糞を食す、或は猨猴或は瓦礫と云云、然れば時を弁へず機をしらずして小乗戒を持たば大乗の障となる、破れば又必ず悪果を招く其の上今の人人小律の者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ驢乳は牛乳を入れて大乗の人をあざむく、大偸盗の者大謗法の者其のとがを論ずれば提婆達多も肩を並べがたく瞿伽利尊者が足も及ばざる閻浮第一の大悪人なり帰依せん国土安穏なるべしや、余此の事を見るに自身だにも弁へなば・さでこそあるべきに日本国に智者とおぼしき人人一人も知らず国すでにやぶれなんとす、其の上仏の諫暁を重んずる上一分の慈悲にもよをされて国に代りて身命を捨て申せども国主等彼にたぼらかされて用ゆる人一人もなし譬へば熱鉄に冷水を投げ睡眠の師子に手を触るが如し、爰に両火房と申す法師あり身には三衣を皮の如くはなつ事なし、一鉢は両眼をまほるが如し二百五十戒堅く持ち三千の威儀をととのへたり、世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ、便宜あらば国敵をせめて彼れが大慢を倒して仏法の威験をあらはさんと思う処に両火房常に高座にして歎いて云く「日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・男女には五戒・八斎戒等を一同に持たせんとおもうに、日蓮が此の願の障りとなる」と云云、余案じて云く「現証に付て事を切らんと思う処に、彼常に雨を心に任せて下す由披露あり、古へも又雨を以て得失をあらはす例これ多し、所謂伝教大師と護命と守敏と弘法と等なり、此に両火房上より祈雨の御いのりを仰せ付けられたり」と云云、此に両火房祈雨あり去る文永八年六月十八日より二十四日なり、此に使を極楽寺へ遣す年来の御歎きこれなり「七


日が間に若一雨も下らば御弟子となりて二百五十戒具さに持たん上に、念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけりと申すべし余だにも帰伏し奉らば我弟子等をはじめて日本国・大体かたぶき候なん」と云云、七日が間に三度の使をつかはす、然れどもいかんがしたりけむ一雨も下らざるの上、頽風・颷風・旋風・暴風等の八風・十二時にやむ事なし剰二七日まで一雨も下らず風もやむ事なし、されば此の事は何事ぞ和泉式部と云いし色好み能因法師と申せし無戒の者此は彼の両火房がいむところの三十一字ぞかし、彼の月氏の大盗賊・南無仏と称せしかば天頭を得たり、彼の両火房並に諸僧等の二百五十戒・真言法華の小法・大法の数百人の仏法の霊験いかなれば婬女等の誑言・大盗人が称仏には劣らんとあやしき事なり、此れを以て彼等が大科をばしらるべきにさはなくして還つて讒言をもちゐらるるは実とはおぼへず所詮・日本国亡国となるべき期来るか、又祈雨の事はたとひ雨下らせりとも雨の形貌を以て祈る者の賢・不賢を知る事あり雨種種なり或は天雨或は竜雨或は修羅雨或は麤雨或は甘雨或は雷雨等あり、今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし、両火房真の人ならば忽に邪見をもひるがへし跡をも山林にかくすべきに其の義なくして面を弟子檀那等にさらす上剰讒言を企て日蓮が頸をきらせまいらせんと申し上あづかる人の国まで状を申し下して種をたたんとする大悪人なり、而るを無智の檀那等は恃怙して現世には国をやぶり後生には無間地獄に堕ちなん事の不便さよ、起世経に云く「諸の衆生有りて放逸を為し清浄の行を汚す故に天・雨を下さず」又云く「不如法あり慳貪・嫉妬・邪見・顛倒なる故に天則ち雨を下さず」又経律異相に云く「五事有て雨無し一二三之を略す四には雨師婬乱五には国王理をもつて治めず雨師瞋る故に雨ふらず」云云、此等の経文の亀鏡をもて両火房が身に指し当て見よ少もくもりなからん、一には名は持戒ときこゆれども実には放逸なるか・二には慳貪なるか・三には嫉妬なるか・四には邪見なるか・五には婬乱なるか・此の五にはすぐべからず、又此の経は両火房一人には限るべからず昔をかがみ今を


もしれ、弘法大師の祈雨の時二七日の間一雨も下らざりしもあやしき事なり、而るを誑惑の心強盛なりし人なれば天子の御祈雨の雨を盗み取て我が雨と云云、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も小雨は下たりしかども三師共に大風連連と吹いて勅使をつけてをはれしあさましさと、天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下らして小風も吹かざりしもたとくぞおぼゆるおぼゆる。

法華経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、乃至利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如きもの有らん」又云く「常に大衆の中に在て我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説き乃至悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」、又云く「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」等云云、涅槃経に云く「一闡提有つて羅漢の像を作し空処に住し方等大乗経典を誹謗す諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩薩なりと謂えり」等云云、今予・法華経と涅槃経との仏鏡をもつて当時の日本国を浮べて其影をみるに誰の僧か国主に六通の羅漢の如くたとまれて而も法華経の行者を讒言して頸をきらせんとせし、又いづれの僧か万民に大菩薩とあをがれたる、誰の智者か法華経の故に度度・処処を追はれ頸をきられ弟子を殺され両度まで流罪せられて最後に頸に及ばんとせし、眼無く耳無きの人は除く眼有り耳有らん人は経文を見聞せよ、今の人人は人毎とに経文を我もよむ我も信じたりといふ只にくむところは日蓮計なり経文を信ずるならば慥にのせたる強敵を取出して経文を信じてよむしるしとせよ、若し爾らずんば経文の如く読誦する日蓮をいかれるは経文をいかれるにあらずや仏の使をかろしむるなり、今の代の両火房が法華経の第三の強敵とならずば釈尊は大妄語の仏・多宝・十方の諸仏は不実の証明なり、又経文まことならば御帰依の国主は現在には守護の善神にすてられ国は他の有となり後生には阿鼻地獄疑なし、而るに彼等が大悪法を尊まるる故に理不尽の政道出来す彼の国主の僻見の心を推するに日