Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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諫暁八幡抄  (9/13) 瞋恚は善悪に通ずる者なり
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わするゆへに天のせめを被り給いぬるなり、我が弟子等の内・謗法の余慶有る者の思いていわく此の御房は八幡をかたきとすと云云、これいまだ道理有りて法の成就せぬには本尊をせむるという事を存知せざる者の思いなり付法蔵経と申す経に大迦葉尊者の因縁を説いて云く「時に摩竭国に婆羅門有り尼倶律陀と名づく過去の世に於て久しく勝業を修し、多く財宝に饒かにして巨富無量なり摩竭王に比するに千倍勝れりと為す、財宝饒かなりと雖も子息有る事無し自ら念わく老朽して死の時将に至らんとす庫蔵の諸物委付する所無し、其の舎の側に於て樹林神有り彼の婆羅門子を求むるが為の故に即ち往て祈請す年歳を経歴すれども微応無し、時に尼倶律陀大に瞋忿を生じて樹神に語て曰く、我汝に事てより来已に年歳を経れども都て一の福応を垂るるを見ず今当に七日至心に汝に事うべし、若し復験無ければ必ず相焼剪せん、樹神聞き已て甚だ愁怖を懐き四天王に向つて具さに斯の事を陳ぶ、是に於て四王往て帝釈に白す・帝釈閻浮提の内を観察するに・福徳の人の彼の子と為るに堪ゆる無し即ち梵王に詣で広く上の事を宣ぶ、爾の時に梵王天眼を以て観見するに梵天の当に命終に臨む有り而て之に告げて曰く汝若し神を降さば宜しく当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし、梵天対て曰く婆羅門の法悪邪見多し我今其子と為る事能ざるなり、梵王復言く彼の婆羅門大威徳有り閻浮提の人往て生ずるに堪ゆる莫し汝必ず彼に生ぜば吾れ相護りて終に汝をして邪見に入らしめざらん、梵天曰く諾・敬て聖教を承けん、是に於て帝釈即樹神に向つて斯の如き事を説く樹神歓喜して尋て其の家に詣で婆羅門に語らく汝今復恨を我れに起す事なかれ郤て後七日当に卿が願を満すべし、七日に至て已に婦身む事有るを覚え十月を満足して一男児を生めり乃至今の迦葉是なり」云云、「時に応じて尼倶律陀大に瞋忿を生ず」等云云、常のごときんば氏神に向いて大瞋恚を生ぜん者は今生には身をほろぼし後世には悪道に堕つべし然りと雖も尼倶律陀長者・氏神に向て大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し賢子をまうけ給いぬ、当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり


今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり、天台・伝教の御時は時いまだ来らざりしかども一分の機ある故に少分流布せり、何に況や今は已に時いたりぬ設とひ機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ、只不軽のごとく大難には値うとも流布せん事疑なかるべきに真言・禅・念仏者等の讒奏に依りて無智の国主等・留難をなす此を対治すべき氏神・八幡大菩薩・彼等の大科を治せざるゆへに日蓮の氏神を諫暁するは道理に背くべしや、尼倶律陀長者が樹神をいさむるに・異ならず、蘇悉地経に云く「本尊を治罰する事鬼魅を治するが如し」等云云、文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために数年が間・法を修行するに成就せざれば本尊を或はしばり或は打ちなんどせよととかれて候、相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか、此は他事にはにるべからず日本国の一切の善人は或は戒を持ち或は布施を行じ或は父母等の孝養のために寺塔を建立し或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止めて諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法の者たるゆへに謀反の者を知ずしてやどしたるがごとく不孝の者に契をなせるがごとく今生には災難を招き後生も悪道に堕ち候べきを扶けんとする身なり而るを日本国の守護の善神等・彼等にくみして正法の敵となるゆへに此をせむるは経文のごとし道理に任せたり、我が弟子等が愚案にをもわく我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上大難の来れるは真言は国をほろぼす念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給うゆへなり、例せば道理有る問注に悪口のまじわれるがごとしと云云、日蓮我が弟子に反詰して云く汝若し爾らば我が問を答えよ一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向て南無妙法蓮華経と唱え給えと勧進せば彼等の云く我が弘法大師は法華経と釈迦仏とを・戯論・無明の辺域・力者・はき物とりに及ばずと・かかせ給いて候、物の用にあわぬ法華経を読誦せ


んよりも其の口に我が小呪を一反も見つべし一切の在家の者の云く善導和尚は法華経をば千中無一・法然上人は捨閉閣抛・道綽禅師は未有一人得者と定めさせ給へり汝がすすむる南無妙法蓮華経は我が念仏の障りなり我等設い悪をつくるともよも唱えじ一切の禅宗の云く我が宗は教外別伝と申して一切経の外に伝へたる最上の法門なり一切経は指のごとし禅は月のごとし天台等の愚人は指をまほつて月を亡いたり法華経は指なり禅は月なり月を見て後は指は何のせんか有るべきなんど申す、かくのごとく申さん時はいかにとしてか南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき仏は且らく阿含経を説き給いて後彼の行者を法華経へ入れんと・たばかり給いしに一切の声聞等・只阿含経に著して法華経へ入らざりしをば・いかやうにか・たばからせ給いし、此をば仏説いて云く「設ひ五逆罪は造るとも五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも彼れ等が善根は仏種とならじ」とこそ説かせ給しか、小乗・大乗はかわれども同じく仏説なり大が小を破して小を大となすと大を破して法華経に入ると大小は異なれども法華経へ入れんと思う志は是一つなり、されば無量義経に大を破して云く「未顕真実」と法華経に云く「此の事は為て不可なり」等云云、仏自ら云く「我世に出でて華厳・般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃せば愛子に財ををしみ病者に良薬をあたへずして死にたるがごとし仏自ら地獄に堕つべし」と云云、不可と申すは地獄の名なり況や法華経の後・爾前の経に著して法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるがごとし親に子の見へざるがごとし、設い法華経を破せざれども爾前の経経をほむるは法華経をそしるに当たれり、妙楽云く「若し昔を称歎せば豈に今を毀るに非ずや」文、又云く「発心せんと欲すと雖も偏円を簡ばず誓の境を解らざれば未来法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」等云云、真言の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は設とい法華経を大日経に相対して勝劣を論ぜずして大日経を弘通すとも滅後に生まれたる三蔵・人師なれば謗法はよも免れ候はじ、何に況や善無畏等の三三蔵は法華経は略説・大日経は広説と同じて而かも法華経の行者を大