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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (9/43) 仏とは九界の衆生の事なり
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仏とは九界の衆生の事なり、此の開覚顕れて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏知見と云うなり、師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり、悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云、又云く四仏知見とは八相なり開とは生の相なり入とは死の相なり中間の示悟は六相なり下天託胎等は示仏知見なり出家降魔成道転法輪等は悟仏知見なり、権教の意は生死を遠離する教なるが故に四仏知見に非ざるなり、今経の時生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳と開覚するを四仏知見と云うなり、四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召し世に出現したもうなり、此の開仏知見の法華経を法然は捨閉閣抛と云い弘法大師は第三の劣戯論の法とののしれり、五仏道同の舌をきる者に非ずや、慈覚大師智証等は悪子に剣を与えて我が親の頭をきらする者に非ずや云云、又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す、日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は衆生有此機感仏故名為因の人なり、夫れが為に法華経の極理を弘めたるは承機而応故名為縁に非ずや、因は下種なり縁は三五の宿縁に帰するなり、事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり、一とは一念・大とは三千なり此の三千ときたるは事の因縁なり事とは衆生世間・因とは五陰世間・縁とは国土世間なり、国土世間の縁とは南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり、経に云く「閻浮提内広令流布使不断絶」是なり云云。 

第四 五濁の事

文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。

御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に


非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす経に云く「以五濁悪世但楽著諸欲如是等衆生終不求仏道」云云、仏道とは法華経の別名なり天台云く「仏道とは別して今経を指す」と。

第五 比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信の事

文句の四に云く上慢と我慢と不信と四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬て聖果と謂い偏に上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ず自ら其の過を見ずとは三失心を覆う、疵を蔵くし徳を揚げて自ら省ること能わざるは是れ無慙の人なり、若し自ら過を見れば是れ有羞の僧なり記の四に云く疵を蔵くす等とは三失を釈するなり疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す、無慙の人とは不信を釈す、若し自ら過を見るは此の三失無し未だ果を証せずと雖も且らく有羞と名く。

御義口伝に云く此本末の釈の意は五千の上慢を釈するなり委くは本末を見る可きなり、比丘比丘尼の二人は出家なり共に増上慢と名く疵を蔵くし徳を揚ぐるを以て本とせり、優婆塞は男なり我慢を以て本とせり優婆夷は女人なり無慙を以て本とせり、此の四衆は今日本国に盛んなり経には其数有五千と有れども日本国に四十九億九万四千八百廿八人と見えたり、在世には五千人・仏の座を立てり今末法にては日本国の一切衆生悉く日蓮が所座を立てり、比丘比丘尼増上慢とは道隆良観等に非ずや又鎌倉中の比丘尼等に非ずや、優婆塞とは最明寺優婆夷とは上下の女人に非ずや敢て我が過を知る可からざるなり、今日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ豈不


自見其過の者に非ずや大謗法の罪人なり法華の御座を立つ事疑無き者なり、然りと雖も日蓮に値う事是併ら礼仏而退の義なり此の礼仏而退は軽賤の義なり全く信解の礼退に非ざるなり此等の衆は於戒有欠漏の者なり、文句の四に云く「於戒有欠漏とは律義失有るをば欠と名け定共道共失有るをば漏と名く」と此の五千の上慢とは我等所具の五住の煩悩なり、今法華経に値い奉る時慢即法界と開きて礼仏而退するを仏威徳故去と云うなり、仏とは我等所具の仏界なり威徳とは南無妙法蓮華経なり、故去とは而去不去の意なり普賢品の作礼而去之を思う可きなり、又云く五千の退座と云う事法華の意は不退座なり其の故は諸法実相略開三顕一の開悟なり、さて其の時は我慢増上慢とは慢即法界と開きて本有の慢機なり、其数有五千とは我等が五住の煩悩なり若し又五住の煩悩無しと云うは法華の意を失いたり、五住の煩悩有り乍ら本有常住ぞと云う時其数有五千と説くなり、断惑に取り合わず其の儘本有妙法の五住と見れば不自見其過と云うなり、さて於戒有欠漏とは小乗権教の対治衆病の戒法にては無きなり是名持戒の妙法なり故に欠漏の当体其の儘是名持戒の体なり、然るに欠漏を其の儘本有と談ずる故に護惜其瑕疵とは説くなり、元より一乗の妙戒なれば一塵含法界一念遍十方する故に是小智已出と云うなり、糟糠とは塵塵法法・本覚の三身なり故にすくなき福徳の当体も本覚無作の覚体なり、不堪受是法とは略開の諸法実相の法体を聞きて其の儘開悟するなりさて身子尊者鈍根のために分別解説したまえと請う広開三の法門をば不堪受是法と説く、さて法華の実義に帰りて見れば妙法の法体は更に能受所受を忘るるなり不思議の妙法なり、本法の重を悟りて見る故に此衆無枝葉と云うなり、かかる内証は純一実相・実相外更無別法なれば唯有諸貞実なり所詮貞実とは色心を妙法と開く事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を唯有諸貞実と説くなり、諸とは諸法実相の仏なり諸は十界なり貞実は十界の色心を妙法と云うなり今経に限る故に唯と云うなり、五千の上慢の外全く法華経之れ無し五千の慢人とは我等が五大なり五大即妙法蓮華経な