Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

御講聞書  (22/41) 平等大慧の妙法蓮華経
828

して、隠顕更に無きなり、所詮、等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり、さて、ひとしきとよむ時は、平等大慧の妙法蓮華経なり、ひとしく法の雨をふらすとは、能弘につけたり、ひとしき法の雨ふりたりと読む時は、所弘の法なり、所詮法と云うは、十界の諸法なり、雨とは十界の言語・音声の振舞なり、ふるとは自在にして地獄は洞燃猛火、乃至仏界の上の所作音声を、等雨法雨とは説けり、此の等雨法雨は法体の南無妙法蓮華経なり、今末法に入つて、日蓮等の類いの弘通する題目は、等雨法雨の法体なり、此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり、所謂日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云、方便品には本末究竟等と云えり、譬喩品には等一大車と云えり、此の等の字を重ねて説かれたり、或は如我等無異と云えり、此の等の字は宝塔品の如是如是と同じなり、所詮等とは南無妙法蓮華経なり、法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云云。

一等雨法雨の事

仰に云く此の時は妙法実相の法雨は十界三千・下は地獄・上は非想非非想まで横に十方・竪に三世に亘つて妙法の功徳をふるを等とは云うなり、さてふるとは一切衆生の色心・妙法蓮華経と三世常住ふるなり云云、一義に云く、此の妙法の雨は九識本法の法体なり、然るに一仏現前して説き出す所の妙法なれば、法の雨をふらすと云うなり、其の故は、ふらすと云うは・上より下へふるを云うなり、仍つて従果向因の義なり、仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす、法体にては・ふる処も・ふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下りたるなり、然らば今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり云云。

一如従飢国来忽遇大王饍の事

仰に云く此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えばうえたる国より


来りて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり、然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり、既に飢国来と説けり、大王饍とは醍醐味なり、中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽に法王の位に備りたり、忽の字は爾前の迂廻道の機に対して忽と云うなり、速疾頓成の義を忽と云うなり、仮令外用の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり、所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併ら大王饍たり、忽遇の遇の字肝要たり、釈に云く、成仏の難きには非ず、此の経に値うをかたしとすと云えり、不軽品に云く復遇常不軽と云云、厳王品に云く生値仏法云云、大王の饍に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり、此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり、十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり、法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦みなるべし、所詮必ず中根の声聞領解の言に我身を餓鬼に類する事は餓鬼は法界に食ありと云えども食する事を得ざるなり、諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども終に開覚に能えざる間・四十余年食にうえたり云云、一義に云く序品方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し、所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり、大王饍とは所謂南無妙法蓮華経是なり、遇の字には人法を納めたり、仍つて末に如飢須教食と云えり、うえたるとも大王のをしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり、今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず、教とは爾前無得道・法華成仏の事なり、此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず醍醐は題目の五字なり云云。

一大通智勝仏十劫坐道場仏法不現前不得成仏道の事

仰に云く此経文は一切衆生の本法流転を説かれたり、


されば釈にも出世以前と判ぜり、此は大通仏出世し給えども十小劫の間・一経も説給わずと云う経文なり、仍て仏法も現前せざる故に不得成仏と云えり、されども釈を見るに出世以前と云う時は、此の経文は何なる事ぞ此は本法の重を説かれたり、一仏出世すれば流転門となる、一仏も出世無き時は、本法不思議の体なり、迷悟もなく、生仏もなく、成仏もなく、不成仏もなきなり、仍つて不得成仏道と云えり、抑も本法と申すは水があつくなり、火がつめたくならば流転門なるべし、水はいつもつめたく、火はいつもあつく、地獄は何も火焔・餓鬼はいつも飢渇・其の外・万法己己の当位・当位の儘なるを本法の体と云うなり、此の重を説き顕したる経文なり、此の本法の重は法華経なり、権教は流転なり、此の流転の衆生を本法の重に引入せられんとての仏の出世なり、其の本法と云うは此の経なり、所詮此の経文・本法とは大通智勝仏と云うは我等衆生の色心なり、十劫と云うは十界なり、坐道場と云うは十界の住所其の儘道場なり、道場なれば寂光土なり、法界寂光土にして、十界の衆生悉く諸法実相の仏なれば一仏現ずべきに非ず、迷の衆生無ければ説く可き法も無し、仍つて仏法不現前と云えり、不得成仏道とは始覚本覚の成仏と云う事も無し、本法不思議の体にして万法本有なり、之れに依つて釈には出世以前と判ぜり、然らば、其の本法の体とは、所詮南無妙法蓮華経なり、此の本法の内証に引入せんが為に、仏は四十余年誘引し、終に第五時の本法を説き給えり、今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり、此の妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引入するなり日蓮・豈大通智勝仏に非ずや、日本国の一切衆生こそ十劫坐道場とて十界其の儘・本法の南無妙法蓮華経へ引入するなり、所詮信心を出だして南無妙法蓮華経と唱え奉る可き者なり云云。

一貧人見此珠其心大歓喜の事

仰に云く此珠とは一乗無価の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、惣じて一