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日蓮大聖人・池田大作

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四条金吾殿御返事 
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留候ぬ、又麦の白米一だはしかみ送り給び候い畢んぬ。

  建治元年乙亥卯月十二日               日蓮花押

   四条金吾殿御返事

四条金吾殿御返事

態と御使喜び入つて候、又柑子五十・鵞目五貫文給び候い畢んぬ、各各御供養と云云、又御文の中に云く去る十六日に有る僧と寄合うて候時・諸法実相の法門を申し合いたりと云云、今経は出世の本懐・一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり、されば伝教大師は万里の波濤をしのぎ給いて相伝しまします此の文なり、一句万了の一言とは是なり、当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪く意得て邪義を云い出し候ぞ、只此の経を持ちて南無妙法蓮華経と唱えて正直捨方便・但説無上道と信ずるを諸法実相の開会の法門とは申すなり、其の故は釈迦仏・多宝如来・十方三世の諸仏を証人とし奉り候なり、相構えてかくの如く心得させ給いて諸法実相の四の文字を時時あぢわへ給うべし・良薬に毒をまじうる事有るべきや・うしほの中より河の水を取り出す事ありや、月は夜に出・日は昼出で給う此の事諍ふべきや、此れより後には加様に意得給いて御問答あるべし、但し細細は論難し給うべからず、猶も申さばそれがしの師にて候日蓮房に御法門候へとうち咲うて打ち返し打ち返し仰せ給うべく候。

  法門を書きつる間・御供養の志は申さず候、有り難し有り難し委くは是よりねんごろに申すべく候。

  建治元年乙亥七月二十二日              日蓮花押

   四条中務三郎左衛門尉殿御返事


瑞相御書

                    建治元年 五十四歳御作

                    与 四条金吾

夫れ天変は衆人をおどろかし地夭は諸人をうごかす、仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う、其の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す六種と申すは天台大師文句の三に釈して云く「東涌西没とは東方は青・肝を主どる肝は眼を主どる西方は白・肺を主どる肺は鼻を主どる此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互に滅するを表するなり鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互に滅す・余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云、妙楽大師之を承けて云く「表根と言うは眼鼻已に東西を表す耳舌理として南北に対す・中央は心なり四方は身なり身四根を具す心徧く四を縁す故に心を以て身に対して涌没を為す」云云、夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる、眼根をば東方をもつて・これをつくる、舌は南方・鼻は西方・耳は北方・身は四方・心は中央等これを・もつて・しんぬべし、かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし・されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木かれ江河つくるしるしあり人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す・抑何の経経にか六種動これなき一切経を仏とかせ給いしみなこれあり、しかれども仏法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば衆も・ことにおどろき弥勒菩薩も疑い文殊師利菩薩もこたへしは諸経よりも瑞も大に久しくありしかば疑も大に決しがたかりしなり、故に妙楽の云く「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん但大疑を生ずること無し」等云云、此の釈の心はいかなる経経にも序は候へども此れほど大なるはなしとなり・されば天台大師の云く「世人以蜘蛛掛れば喜び来り鳱鵲鳴けば行人至ると小すら尚徴有り大焉ぞ瑞無からん近きを以て


遠きを表す」等云云。

夫一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて法華経の迹門を・とかせ給いぬ、其の上本門と申すは又爾前の経経の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり、大宝塔の地より・をどりいでし地涌千界・大地よりならび出でし大震動は大風の大海を吹けば大山のごとくなる大波のあしのはのごとくなる小船のをひほにつくが・ごとくなりしなり、されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問い涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問いたてまつる・これを妙楽釈して云く「迹事は浅近・文殊に寄すべし久本は裁り難し故に唯仏に託す」云云・迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり、本門の事は妙徳すこしもはからず、此の大瑞は在世の事にて候、仏・神力品にいたつて十神力を現ず此れは又さきの二瑞には・にるべくもなき神力なり、序品の放光は東方・万八千土、神力品の大放光は十方世界、序品の地動は但三千界・神力品の大地動は諸仏の世界地・皆六種に震動す、此の瑞も又又かくのごとし、此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入つて法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり、経文に云く「仏の滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云、又云く「悪世末法の時」等云云。

疑つて云く夫れ瑞は吉凶につけて或は一時・二時・或は一日・二日・或は一年・二年・或は七年・十二年か・如何ぞ二千余年已後の瑞あるべきや、答えて云く周の昭王の瑞は一千十五年に始めてあえり、訖利季王の夢は二万二千年に始めてあいぬ、豈二千余年の事の前にあらはるるを疑うべきや、問うて云く在世よりも滅後の瑞・大なる如何、答えて云く大地の動ずる事は人の六根の動くによる、人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず、今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり、末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う。