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日蓮大聖人・池田大作

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草木成仏口決  (2/2) 一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼…
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の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり、止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり、天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言は・かはれども草木成仏の事なり、口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云、法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし、理の顕本は死を表す妙法と顕る・事の顕本は生を表す蓮華と顕る、理の顕本は死にて有情をつかさどる・事の顕本は生にして非情をつかさどる、我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり・我等衆生の言語・音声・生の位には妙法が有情となりぬるなり、我等一身の上には有情非情具足せり、爪と髪とは非情なり・きるにもいたまず・其の外は有情なれば・切るにもいたみ・くるしむなり、一身所具の有情非情なり・此の有情・非情・十如是の因果の二法を具足せり、衆生世間・五陰世間・国土世間・此の三世間・有情非情なり。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・かへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮・妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。

  二月二十日                     日蓮花押

   最蓮房御返事


最蓮房御返事

 夕ざりは相構え相構えて御入り候へ、得受職人功徳法門委細申し候はん。

御礼の旨委細承り候い畢んぬ、都よりの種種の物慥かに給び候い畢んぬ、鎌倉に候いし時こそ常にかかる物は見候いつれ・此の島に流罪せられし後は未だ見ず候、是れ体の物は辺土の小島にては・よによに目出度き事に思い候。

御状に云く去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候云云、経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」とも或は「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」とも云へり、釈には「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住せん」とも、或は云く「初此の仏菩薩に従つて結縁し還つて此の仏菩薩に於て成就す」とも云えり、此の経釈を案ずるに過去無量劫より已来師弟の契約有りしか、我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ・忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事・是れ偏に過去の宿習なるか。

予日本の体を見るに第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に「悪鬼入其身」とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして・王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり、然るに今時は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離し正善の師に親近すべきなり、設い徳


は四海に斉く智慧は日月に同くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり、或る経に云く「若し誹謗の者には共住すべからず若し親近し共住せば即ち阿鼻獄に趣かん」と禁め給う是なり、いかに我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども・悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり、釈に云く「若し人本悪無きも悪人に親近すれば後必ず悪人と成り悪名天下に遍からん」云云、所詮其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり、涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪智識に於ては怖畏の心を生ぜよ、悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺さるれば必ず三趣に至らん」、法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」等云云、先先申し候如く善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然・東寺の弘法・園城寺の智証・山門の慈覚・関東の良観等の諸師は今の正直捨方便の金言を読み候には正直捨実教・但説方便教と読み・或は於諸経中・最在其上の経文をば於諸経中・最在其下と・或は法華最第一の経文をば法華最第二・第三等と読む、故に此等の法師原を邪悪の師と申し候なり。

さて正善の師と申すは釈尊の金言の如く・諸経は方便法華は真実と正直に読むを申す可く候なり、華厳の七十七の入法界品之を見る可し云云、法華経に云く「善知識は是れ大因縁なり所謂化導して仏を見たてまつり阿耨菩提を発することを得せしむ」等云云、仏説の如きは正直に四味三教・小乗・権大乗の方便の諸経・念仏・真言・禅・律等の諸宗・並びに所依の経を捨て・但唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師善師とは申す可きなり、然るに日蓮末法の初の五百年に生を日域に受け如来の記文の如く三類の強敵を蒙り種種の災難に相値つて身命を惜まずして南無妙法蓮華経と唱え候は正師か邪師か能能御思惟之有る可く候。

上に挙ぐる所の諸宗の人人は我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども・予が如く弘長