Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

一念三千法門  (3/5) 一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経…
414

念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり、此の時は十方世界皆寂光浄土にて何れの処をか弥陀薬師等の浄土とは云わん、是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふさては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る我等が身と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり、天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す・権実の正軌を示す故に号して法と為す、久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす、声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う、又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云、経の題目を唱うると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし、されども天台止の二に而於説黙と云へり、説とは経・黙とは観念なり、又四教義の一に云く「但功の唐捐ならざるのみに非ず亦能く理に契うの要なるをや」と云云、天台大師と申すは薬王菩薩なり此の大師の説而観而と釈し給ふ元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむねとし一向観心を面とす、法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と広大と申すは残らず引導し給うを申すなり、仮使釈尊一人・本懐と宣べ給う


とも等覚以下は仰いで此の経を信ず可し況や諸仏出世の本懐なり、禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども其は四種の一面なり、一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば題目に十如是を置くべき処に題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、又当世の禅宗は教外別伝と云い給うかと思へば又捨られたる円覚経等の文を引かるる上は実経の文に於て御綺に及ぶべからず候、智者は読誦に観念をも並ぶべし愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し、此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり是を教え給ふ仏の御詞なり、無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし身今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、死すれば光を放つ是れ外用の成仏と申す来世得作仏とは是なり、略挙経題・玄収一部とて一遍は一部云云、妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る耳にふれし類は無量阿僧祗劫の罪を滅す一念も随喜する時即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す、妙楽大師の云く「若は取若は捨・耳に経て縁と成る、或いは順或いは違終いに斯れに因つて脱す」と云云、日蓮云く若取若捨或順或違の文肝に銘ずる詞なり法華経に若有聞法者等と説れたるは是か、既に聞く者と説れたり観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし、只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一念より事起り十界の衆生は出来たりけり、此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり、一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか、有情非情、抑草木は何ぞ金錍論に云く「一草一木・一礫一塵・各一仏性・各一因果・具足縁了」等と云云、法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘比丘尼、妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一念も随喜せん者は我皆阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と云云、非人とは総じて人界の外一切有情界とて心


あるものなり況や人界をや、法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、玄の一に云く「上中下根皆記莂を与う」と云云、観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、況や教外別伝の坐禅をや、法師品に云く「薬王多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くこと得ること有らば乃ち能善菩薩の道を行ずるなり」と云云、観心計りにて成仏すべくんば争か見聞読誦と云わんや、此の経は専ら聞を以て本と為す凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大慧とも云う、善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す故に即身成仏と申し一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ、義を知らざる人なれども唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ我即歓喜諸仏亦然云云、百千合せたる薬も口にのまざれば病愈えず蔵に宝を持ども開く事をしらずしてかつへ懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し、如意宝珠と云う玉は五百弟子品の此の経の徳も又此くの如し、観心を並べて読めば申すに及ばず観念せずと雖も始に申しつるごとく所謂諸法如是相如云云と読む時は如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力・其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり、所謂諸法如是相云云とよめば是れ仮の義なれば我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり、所謂諸法如是と読む時は是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く、此の十如是・三転によまるる事・三身即一身・一身即三身の義なり三に分るれども一なり一に定まれども三なり。