Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

一念三千法門  (2/5) 本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の…
413

十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり、止の一に云く「止は則仏の母・観は即仏の父なり」と云云、譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ我が蔵に宝のある事を知らずかつへ死しこごへ死す、或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、然るに或は教えられて食し或はくくめられて食するが如し、弘の一の止観の二字は正しく聞体を示す聞かざる者は本末究竟等も徒らか、子なれども親にまさる事多し重華はかたくなはしき父を敬いて賢人の名を得たり、沛公は帝王と成つて後も其の父を拝す其の敬われし父をば全く王といはず敬いし子をば王と仰ぐが如し、其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出し給へり、凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふむなんど悪口す大なる僻事なり。

一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり委く申すに及ばず候、此の三観を心得すまし成就したる処を華厳経に三界唯一心と云云、天台は諸水入海とのぶ仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなきを平等大慧と云うなり、平等と書いては・おしなべて・と読む、此の一心三観・一念三千の法門・諸経にたえて之無し法華経に遇わざれば争か成仏す可きや、余経には六界八界より十界を明せどもさらに具を明かさず、法華経は


念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり、此の時は十方世界皆寂光浄土にて何れの処をか弥陀薬師等の浄土とは云わん、是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふさては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る我等が身と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり、天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す・権実の正軌を示す故に号して法と為す、久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす、声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う、又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云、経の題目を唱うると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし、されども天台止の二に而於説黙と云へり、説とは経・黙とは観念なり、又四教義の一に云く「但功の唐捐ならざるのみに非ず亦能く理に契うの要なるをや」と云云、天台大師と申すは薬王菩薩なり此の大師の説而観而と釈し給ふ元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむねとし一向観心を面とす、法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と広大と申すは残らず引導し給うを申すなり、仮使釈尊一人・本懐と宣べ給う


とも等覚以下は仰いで此の経を信ず可し況や諸仏出世の本懐なり、禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども其は四種の一面なり、一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば題目に十如是を置くべき処に題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、又当世の禅宗は教外別伝と云い給うかと思へば又捨られたる円覚経等の文を引かるる上は実経の文に於て御綺に及ぶべからず候、智者は読誦に観念をも並ぶべし愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し、此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり是を教え給ふ仏の御詞なり、無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし身今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、死すれば光を放つ是れ外用の成仏と申す来世得作仏とは是なり、略挙経題・玄収一部とて一遍は一部云云、妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る耳にふれし類は無量阿僧祗劫の罪を滅す一念も随喜する時即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す、妙楽大師の云く「若は取若は捨・耳に経て縁と成る、或いは順或いは違終いに斯れに因つて脱す」と云云、日蓮云く若取若捨或順或違の文肝に銘ずる詞なり法華経に若有聞法者等と説れたるは是か、既に聞く者と説れたり観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし、只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一念より事起り十界の衆生は出来たりけり、此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり、一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか、有情非情、抑草木は何ぞ金錍論に云く「一草一木・一礫一塵・各一仏性・各一因果・具足縁了」等と云云、法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘比丘尼、妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一念も随喜せん者は我皆阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と云云、非人とは総じて人界の外一切有情界とて心