Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

一代聖教大意  (12/16) 人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏…
401

法界有り」文、法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり、爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんとある経もあり、或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念い菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生れて衆生を利益せんと念ふ、或は菩薩の頓悟成仏を見・或は菩薩の多倶低劫の修行を見・或は凡夫往生の旨を説けば菩薩声聞の為には有らずと見て人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らず四十二年をば過ぎしなり。

然るに今経にして十界互具を談ずる時・声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間をもはざる外に声聞が菩薩と云われ人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる、仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり、薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と、又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」文。

問うて云く諸経にも悪人が仏に成る華厳経の調達の授記・普超経の闍王の授記・大集経の婆籔天子の授記・又女人が仏に成る胎経の釈女の成仏・畜生が仏に成る阿含経の鴿雀の授記・二乗が仏に成る方等だらに経・首楞厳経等なり、菩薩の成仏は華厳経等・具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等・女人の女身を転ずるは雙観経の四十八願の中の三十五の願・此等は法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記に何なるかわりめかある、又設いかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何、答う予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経


に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず。

問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後・玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり、御年五十七の夏四月の比荊州の玉泉寺と申す処にて御弟子・章安大師と申す人に説ききかせ給いし止観十巻あり、上の四帖に猶をしみ給いて但六即・四種三昧等・計の法門にてありしに五の巻より十境・十乗を立てて一念三千の法門を書き給へり、此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並に三千を以て指南と為す○請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文、六十巻・三千丁の多くの法門も由無し但此の初の二三行を意得可きなり、止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、妙楽承け釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に徧ねし」文、日本の伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚云く「此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し」と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と云云、依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり、天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の止観・今比叡山の根本中堂に収めたり。


        ┌─一 自性────自力────迦毘羅外道
        
        ├─二 他性────他力────楼僧伽外道
    四性計─┤
        ├─三 共性────共力────勒娑婆外道
        
        └─四 無因性───無因力───自然外道

外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成の外道小乗・三には学仏法の外道妙法を知らざる大乗の外道なり。今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、共と無因は略す。

法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、されば実を以てさぐり給うに法華経已前には但権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し、人界を離れたる菩薩界も無き故に但法華経の仏の爾前にして十界の形を現して所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも言われしなり、実の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思いなして・すぎし程に法華経に来つて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり往生もせざりけりなんと覚知するなり、一念三千は別に委く書す可し。

此の経には二妙あり釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」と一には相待妙・二には絶待妙なり、相待妙の意は前の