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日蓮大聖人・池田大作

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小乗大乗分別抄  (3/7) 二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげ…
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ば九界の衆生・仏になるべからず、法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人・一人は必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ、一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず、譬えば父母ともに持ちたる者・兄弟九人あらんか二人は凡下の者と定められば余の七人も必ず凡下の者となるべし、仏と経とは父母の如し九界の衆生は実子なり声聞・縁覚の二人・永不成仏の者となるならば菩薩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや、今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾子なり乃至唯我一人のみ能く救護を為すの文をもつて知るべし、又菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす第一衆生無辺誓願度の願・成就せずば第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず、前四味の諸経にては菩薩・凡夫は仏になるべし二乗は永く仏になるべからず等云云、而るをかしこげなる菩薩もはかなげなる六凡も共に思へり我等仏になるべし二乗は仏にならざれば・かしこくして彼の道には入ざりけると思ふ、二乗はなげきをいたき此の道には入るまじかりし者をと恐れかなしみしが・今法華経にして二乗を仏になし給へる時二乗・仏になるのみならず・かの九界の成仏をも・ときあらはし給へり、諸の菩薩・此の法門を聞いて思はく我等が思ひは・はかなかりけり爾前の経経にして二乗仏にならずば我等もなるまじかりける者なり、二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり

又寿量品の久遠実成が爾前の経経になき事を以て思ふに爾前には久遠実成なきのみならず仏は天下第一の大妄語の人なるべし、爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に始めて正覚を成じ我昔道場に坐す等云云、真実甚深・正直捨方便の無量義経と法華経の迹門には我先に道場にして・我始め道場に坐すと説れたり、此等の経文は寿量品の然るに我実に成仏してより已来無量無辺なりの文より思い見ればあに大妄語にあらずや、仏の一身すで


に大妄語の身なり一身に備えたる六根の諸法あに実なるべきや、大冰の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや水中の満月は実に体ありや、爾前の成仏往生等は水中の星月の如し爾前の成仏往生等は体に随ふ影の如し、本門寿量品をもつて見れば寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり、天台大師此の法門を道場にして独り覚知し玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給うに諸経に二乗作仏・久遠実成絶えてなき由を書きをき給ふ、是は南北の十師が教相に迷つて三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教四教等を立てて教の浅深勝劣に迷いし此等の非義を破らんが為にまず眼前たる二乗作仏・久遠実成をもつて諸経の勝劣を定め給いしなり、然りと云つて余界の得道をゆるすにはあらず、其の後華厳宗の五教・法相宗の三時・真言宗の顕密・五蔵・十住心・義釈の四句等は南三北七の十師の義よりも尚悞れる教相なり。

此等は他師の事なれば・さてをきぬ又自宗の学者が天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷うて爾前の経経には二乗作仏・久遠実成計りこそ無けれども余界の得道は有りなんど申す人人・一人二人ならず日本国に弘まれり、他宗の人人・是に便を得て弥天台宗を失ふ此等の学者は譬えば野馬の蜘蛛の網にかかり渇る鹿の陽炎をおふよりもはかなし・例せば頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に泰衡を誑して義経を討たせ、太政入道清盛は源氏を喪して世をとらんが為に我が伯父平馬介忠正を切る義朝はたぼらかされて慈父為義を切るが如し、此等は墓なき人人のためしなり、天台大師法華経より外の経経には二乗作仏・久遠実成は絶えてなしなんど釈し給へば菩薩の作仏・凡夫の往生はあるなんめりとうち思いて我等は二乗にも・あらざれば爾前の経経にても得道なるべし此の念い心中にさしはさめり、其の中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば法華経をばなげすて念仏申して浄土に生れて観音・勢至・阿弥陀仏に値いたてまつて成仏を遂ぐべし云云、当世の天台宗の人人を始として諸宗の学者皆此くの如し実義をもつて申さば一切衆生の成仏のみならず六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の


力なり、例せば日本国の人・唐土の内裏に入らん事は必ず日本の国王の勅定によるべきが如し・穢土を離れて浄土に入る事は必ず法華経の力なるべし、例せば民の女・乃至関白大臣の女に至るまで大王の種を下せば其の産る子・王となりぬ、大王の女なれども臣下の種を懐姙せば其の子王とならざるが如し、十方の浄土に生るる者は三乗・人天・畜生等までも皆王の種姓と成つて生るべし皆仏となるべきが故なり、阿含経は民の女の民を夫とし華厳・方等・般若等は臣の女の臣を夫とせるが如し、又華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は大王の女の臣下を夫とせるが如し、皆浄土に生るべき法にはあらず、又華厳・阿含・方等・般若等の経経の間に六道を出づる人あり是は彼彼の経経の力には非ず過去に法華経の種を殖えたりし人・現在に法華経を待たずして機すすむ故に爾前の経経を縁として過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり、例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し孝養父母の者の梵天に生るるが如し・飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねどもかれを縁として過去の修因を引きおこし彼の天に生じ独覚の菩提を証す、而るに尚過去に小乗の三賢・四善根にも入らず有漏の禅定をも修せざる者は月を観じ花を詠じ孝養父母の善を修すれども独覚ともならず色天にも生ぜず、過去に法華経の種を殖ざる人は華厳経の席に侍りしかども初地・初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず観経等にても九品の往生をもとげず、但大小の賢位のみに入つて聖位には・のぼらずして法華経に来つて始めて仏種を心田に下して一生に初地・初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至・滅後・未来までゆく人もあり、過去に法華経の種を殖たる人人は結縁の厚薄に随つて華厳経を縁として初地初住に登る人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗と成る者もあり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり、方等・般若も此れをもつて知んぬべし、此等は彼彼の経経の力にはあらず偏に法華経の力なり譬えば民の女に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ大臣等の女に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へ