Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

一代聖教大意  (11/16) 十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界…
400

て悪道に堕つ」文。

妙法蓮華経・妙は天台玄義に云く「言う所の妙とは妙は不可思議に名くるなり」と、又云く「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」と、又云く「妙とは最勝・修多羅・甘露の門なり故に妙と言うなり」と、法は玄義に云く「言う所の法とは十界十如・権実の法なり」、又云く「権実の正軌を示す故に号して法と為す」と、蓮華は玄義に云く「蓮華とは権実の法に譬うるなり」、又云く「久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てし不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす」文、経は又云く「声仏事を為す之を称して経と為す」文、私に云く法華以前の諸経に小乗は心生ずれば六界・心滅すれば四界なり、通教以て是くの如し、爾前の別円の二教は心生の十界なり小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習うなりされば心滅すれば六道の因果は無きなり、大乗の心より十界を生ず、華厳経に云く「心は工なる画師の如く種種の五陰を造る一切世界の中に法として造らざること無し」文、造種種五陰とは十界の五陰なり仏界をも心法をも造ると習う・心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習うなり、華厳経に云く「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観すべし心は諸の如来を造ると」法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業・中品の十悪は餓鬼の引業・下品の十悪は畜生の引業・五常は修羅の引業・三帰・五戒は人の引業・三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業・五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業・五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり仏界の引業なり、蔵通二教には仏性の沙汰なし但菩薩の発心を仏性と云う、別円二教には衆生に仏性を論ず但し別教の意は二乗に仏性を論ぜず、爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し此等は皆麤法なり、今の妙法とは此等の十界を互に具すと説く時・妙法と申す、十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し十界互に具すれば百法界なり、玄の二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百


法界有り」文、法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり、爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんとある経もあり、或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念い菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生れて衆生を利益せんと念ふ、或は菩薩の頓悟成仏を見・或は菩薩の多倶低劫の修行を見・或は凡夫往生の旨を説けば菩薩声聞の為には有らずと見て人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らず四十二年をば過ぎしなり。

然るに今経にして十界互具を談ずる時・声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間をもはざる外に声聞が菩薩と云われ人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる、仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり、薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と、又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」文。

問うて云く諸経にも悪人が仏に成る華厳経の調達の授記・普超経の闍王の授記・大集経の婆籔天子の授記・又女人が仏に成る胎経の釈女の成仏・畜生が仏に成る阿含経の鴿雀の授記・二乗が仏に成る方等だらに経・首楞厳経等なり、菩薩の成仏は華厳経等・具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等・女人の女身を転ずるは雙観経の四十八願の中の三十五の願・此等は法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記に何なるかわりめかある、又設いかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何、答う予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経


に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず。

問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後・玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり、御年五十七の夏四月の比荊州の玉泉寺と申す処にて御弟子・章安大師と申す人に説ききかせ給いし止観十巻あり、上の四帖に猶をしみ給いて但六即・四種三昧等・計の法門にてありしに五の巻より十境・十乗を立てて一念三千の法門を書き給へり、此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並に三千を以て指南と為す○請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文、六十巻・三千丁の多くの法門も由無し但此の初の二三行を意得可きなり、止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、妙楽承け釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に徧ねし」文、日本の伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚云く「此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し」と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と云云、依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり、天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の止観・今比叡山の根本中堂に収めたり。