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日蓮大聖人・池田大作

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十法界明因果抄  (9/11) 一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり
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し、故に天台の梵網経の疏に云く「仏果に至つて乃ち廃す」文、問うて云く梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造れると並に決定性の二乗とを許すや、答えて云く梵網経に云く「若し戒を受けんと欲する時は師問い言うべし汝現身に七逆の罪を作らざるやと、菩薩の法師は七逆の人の与に現身に戒を受けしむることを得ず」文、此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず、大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙の五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けず若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障ず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」文、此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授け二乗に於ては制止を加うる者なり、二乗戒を嫌うは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うに非ず彼の戒は菩薩も持す可し但二乗の心念を嫌うなり、夫れ以みれば持戒は父母・師僧・国王・主君の一切衆生三宝の恩を報ぜんが為なり、父母は養育の恩深し一切衆生は互に相助くる恩重し国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり、此に依つて善を修すれば恩重し主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養う、設い爾らずと雖も一身を顧る等の恩是重し師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し仏恩は言うに及ばず是くの如く無量の恩分之有り、而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり故に一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり一念も菩薩の心を起すは一切諸仏の後心の功徳を起せるなり、已上四十余年の間の大小乗の戒なり、法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり、先ず相待妙の戒とは四十余年の大小乗の戒と法華経の戒と相対して爾前を麤戒と云い法華経を妙戒と云うて諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌うなり、法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対して麤妙を論ずるを相待妙の戒と云うなり。

問うて云く梵網経に云く「衆生・仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る位大覚に同じ已に実に是諸仏の子なり」文。


華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文、大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文、此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り何ぞ但歴劫修行の戒なりと云うや、答えて云く此れに於て二義有り一義に云く四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り、其の中に於て四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては法華経の戒に劣ると雖も四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ、故に上に出す所の衆生仏戒を受れば即ち諸仏の位に入る等の文は法華経の須臾聞之・即得究竟の文に之同じ、但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云えるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌うなり速疾頓成の戒をば嫌わざるなり、一義に云く四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒・法華経の戒は速疾頓成の戒なり、但し上に出す所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては凡夫地より速疾頓成するに非ず凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経最後に於て凡夫地より即身成仏す、故に最後に従えて速疾頓成とは説くなり、委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり、故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて仏・無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌いたまえり、大荘厳菩薩の此の義を承けて領解して云く「無量無辺・不可思議阿僧祗劫を過れども終に無上菩提を成ずることを得ず、何を以ての故に菩提の大直道を知らざるが故に険逕を行くに留難多きが故に、乃至大直道を行くに留難無きが故に」文、若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之れ有れば仏猥りに四十余年の実義を隠し給うの失之れ有り云云、二義の中に後の義を作る者は存知の義なり、相待妙の戒是なり、次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり其の故は爾前の人天の楊葉戒・小乗阿含経の二乗の瓦器戒・華厳・方等・般若・観経等の歴劫菩薩の金銀戒の行者法華経に至つて互に和会して一同と成る、所以に人天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具し菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す余は以て知んぬ可し、三悪道の人は現身に於て戒


無し過去に於て人天に生れし時人天の楊葉・二乗の瓦器菩薩の金銀戒を持ち退して三悪道に堕す、然りと雖も其の功徳未だ失せず之有り三悪道の人・法華経に入る時其の戒之を起す故に三悪道にも亦十界を具す、故に爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、安然和尚の広釈に云く「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く」文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり、爾前の経には十界互具を明さず故に菩薩無量劫を経て修行すれども二乗・人天等の余戒の功徳無く但一界の功徳を成ず故に一界の功徳を以て成仏を遂げず、故に一界の功徳も亦成ぜず、爾前の人・法華経に至りぬれば余界の功徳を一界に具す、故に爾前の経即ち法華経なり法華経即ち爾前の経なり、法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是を妙法と言う、此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり、故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」文、阿含経即ち法華経と云う文なり、「一仏乗に於て分別して三と説く」文、華厳・方等・般若即ち法華経と云う文なり、「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」文、一切の外道・老子・孔子等の経は即ち法華経と云ふ文なり、梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。

  正元二年庚申四月二十一日              日蓮花押