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日蓮大聖人・池田大作

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一代聖教大意  (4/16) 身も心もうせ虚空の如く成るべし
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永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり、此の教の修行の時節は声聞は三生鈍根六十劫利根又一類の最上利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事あり、縁覚は四生鈍根百劫利根菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず而も四弘誓願を発し六度万行を修し三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏と成る仏と成る時始めて見思を断尽するなり、見惑とは一には身見亦我見と云う二には辺見亦断見常見と云う三には邪見亦撥無見と云う四には見取見亦劣謂勝見と云う五には戒禁取見亦非因計因非道計道見と云うなり見惑は八十八有れども此の五が根本にて有るなり、思惑とは一には貪・二には瞋・三には癡・四には慢なり思惑は八十一有れども此の四が根本にて有るなり、此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明せり、別して倶舎宗と申す宗有り又諸の大乗に此の法門少少明す事あり・謂く方等部の経・涅槃経等なり但し華厳・般若・法華には此の法門無し。

次に通教とは大乗の始なり又戒定慧の三学あり、此の教の意のおきて大旨は六道を出でず少分利根なる菩薩六道より外に推し出すことあり、声聞・縁覚・菩薩・共に一の法門を習い見思を三人共に断じ而も声聞・縁覚・灰身滅智の意に入る者もあり入らざる者もあり、此の教に十地あり。

      ┌─一 乾慧地───三 賢──┐
                    ├─賢人
      ├─二 性地────四善根──┘
      
      ├─三 八人地───見道位聖人──┐
                      ├─見惑を断ず
      ├─四 見地────初果の聖人──┘
      

   十地─┼─五 薄地──┐
             
      ├─六 離欲地─┼─思惑を断ず
             
           ┌─┘
      ├─七 已弁地───阿羅漢──見思を断じ尽す
      
      ├─八 辟支仏地──習気を尽す
      
      ├─九 菩薩地───誓つて習を扶けて生ずるなり
      
      └─十 仏地────見思を断じ尽す

此通教の法門は別して一経に限らず方等経般若経心経観経阿弥陀経雙観経金剛般若等の経に散在せり、此通教の修行の時節は動踰塵劫を経て仏に成ると習うなり、又一類の疾く成ると云う辺もあり・已上・上の蔵通二教には六道の凡夫・本より仏性ありとも談ぜず始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。

次に別教又戒定慧の三学を談ず此の教は但菩薩計りにて声聞縁覚を雑えず、菩薩戒とは三聚浄戒なり五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護佗の十戒・大論の十戒・是等は皆菩薩の三聚浄戒の内・摂律儀戒なり、摂善法戒とは八万四千の法門を摂す、饒益有情戒とは四弘誓願なり定とは観練熏修の四種の禅定なり慧とは心生十界の法門なり、五十二位を立つ五十二位とは一に十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地等覚一位妙覚二位なり、已上五十二位。

             ┌─退位
      ┌─十 信──┤
            └─凡夫菩薩未だ見思を断ぜず
      ├─十 住─┐
           
 五十二位─┼─十 行─┼─不退位
           
      ├─十回向─┘ 見思塵沙を断ぜる菩薩
      

      ├─十 地─┐
           ├─無明を断ぜる菩薩
      ├─等 覚─┘
      
      └─妙 覚───無明を断じ尽せる仏なり

此の教は大乗なり戒定慧を明す・戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒・金剛宝戒なり、此の教の菩薩は三悪道を恐しとせず二乗道を恐る地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず二乗の道は仏の種子を断ずればなり、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障えず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」と、此の教の習は真の悪道とは三無為の火阬なり真の悪人とは二乗を云うなり、されば悪を造るとも二乗の戒をば持たじと談ず、故に大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けずと・若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、此の文に妙なる五欲とは色・声・香・味・触の五欲なり・色欲とは青黛・珂雪・白歯等声欲とは絲竹管絃・香欲とは沈檀芳薫・味欲とは猪鹿等の味・触欲とは輭膚等なり、此に恒河沙劫に著すれども菩薩戒は破れず一念の二乗の心を起すに菩薩戒は破ると云える文なり、太賢の古迹に云く「貪に汚さるると雖も大心尽きざるをもつて無余の犯無し起せども無犯と名く」文、二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり華厳・般若・方等総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり定慧此れを略す、梵網経に云く「戒をば謂いて大地と為し定をば謂いて室宅と為す智慧は為灯明なり」文、此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌わず但一種の菩薩戒を授く、此の教の意は五十二位を一一の位に多倶低劫を経て衆生界を尽して仏に成るべし一人として一生に仏に成る者無し、又一行を以て仏に成る事無し一切行を積んで仏と成る微塵を積んで須弥山と成すが如し、華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり、但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ、妙楽の釈に云く「徧く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文無し」文。