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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (1/43) 如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人な…
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 勧持品十三箇の大事   安楽行品五箇の大事   涌出品一箇の大事
 寿量品二十七箇の大事  分別功徳品三箇の大事  随喜品二箇の大事
 法師功徳品四箇の大事  不軽品三十箇の大事   神力品八箇の大事
 嘱累品三箇の大事    薬王品六箇の大事    妙音品三箇の大事
 普門品五箇の大事    陀羅尼品六箇の大事   厳王品三箇の大事
 普賢品六箇の大事    無量義経六箇の大事   普賢経五箇の大事
已上二百三十一箇条也此の外に別伝之有り具さに之を記し訖ぬ。

御義口伝巻上

         日蓮所立自序品至涌出品

       序品七箇の大事

第一 如是我聞の事

文句の一に云く如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人なり記の一に云く故に始と末と一経を所聞の体と為す。

御義口伝に云く所聞の聞は名字即なり法体とは南無妙法蓮華経なり能持とは能の字之を思う可し、次に記の一の故始末一経の釈は始とは序品なり末とは普賢品なり法体とは心と云う事なり法とは諸法なり諸法の心と云う事なり諸法の心とは妙法蓮華経なり、伝教云く法華経を讃むると雖も還つて法華の心を死すと、死の字に心を留めて之を案ず可し不信の人は如是我聞の聞には非ず法華経の行者は如是の体を聞く人と云う可きなり、爰を以て文句の一に云く「如是とは信順の辞なり信は則ち所聞の理会し順は則ち師資の道成ず」と、所詮日蓮等の


類いを以て如是我聞の者と云う可きなり云云。

第二 阿若憍陳如の事

疏の一に云く憍陳如は姓なり此には火器と翻ず婆羅門種なり其の先火に事こう此れに従て族に命く、火に二義有り照なり焼なり照は則ち闇生ぜず、焼は則ち物生ぜず・此には不生を以て姓と為す。御義口伝に云く火とは法性の智火なり、火の二義とは一の照は随縁真如の智なり一の焼は不変真如の理なり照焼の二字は本迹二門なり、さて火の能作としては照焼の二徳を具うる南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり生死即涅槃と開覚するを照則闇不生とは云うなり、煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり煩悩即菩提と開覚するを照則物不生とは云うなり、爰を以て之を案ずるに陳如は我等法華経の行者の煩悩即菩提生死即涅槃を顕したり云云。

第三 阿闍世王の事

文句の一に云く阿闍世王とは未生怨と名く、又云く大経に云く阿闍世とは未生怨と名く又云く大経に云く阿闍を不生と名く世とは怨と名く。御義口伝に云く日本国の一切衆生は阿闍世王なり既に諸仏の父を殺し法華経の母を害するなり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生む、謗法の人・今は母の胎内に処しながら法華の怨敵たり豈未生怨に非ずや、其の上日本国当世は三類の強敵なり世者名怨の四字に心を留めて之を案ず可し。日蓮等の類い此の重罪を脱れたり謗法の人人法華経を信じ釈尊に帰し奉らば何ぞ已前の殺父殺母の重罪滅せざらんや、但し父母なりとも法華経不信の者ならば殺害す可きか、其の故は権教の愛を成す母・方便真実を明めざる父をば殺害す可しと見えたり、仍て文句の二に云く「観解は貪愛の母・無明の父・此れを害する故に逆と称す逆即順なり非道を行じて仏道に通達す」と、観解とは末法・当今は題目の観解なる可し子として父母を殺害するは逆なり、然りと雖も法華経不信の父母を殺しては順となるなり爰を以て逆即是順と釈せり、今日蓮等の


類いは阿闍世王なり其の故は南無妙法蓮華経の剣を取つて貪愛・無明の父母を害して教主釈尊の如く仏身を感得するなり、貪愛の母とは勧持品三類の中第一の俗衆なり無明の父とは第二第三の僧なり云云。

第四 仏所護念の事

文句の三に云く仏所護念とは無量義処は是れ仏の証得し給う所是の故に如来の護念し給う所なり、下の文に仏自住大乗と云えり開示せんと欲すと雖も衆生の根鈍なれば久しく斯の要を黙して務て速かに説き給わず故に護念と云う記の三に云く昔未だ説かず故に之を名けて護と為す法に約し機に約して皆護念する故に乃至機仍お未だ発せず隠して説かず故に護念と言う、乃至未説を以ての故に護し未暢を以ての故に念ず、久黙と言うは昔より今に至るなり斯要等の意之を思うて知る可し。

御義口伝に云く此の護念の体に於ては本迹二門首題の五字なり、此の護念に於て七種の護念之れ有り一には時に約し二には機に約し三には人に約し四には本迹に約し五には色心に約し六には法体に約し七には信心に約するなり云云、今日蓮等の類いは護念の体を弘むるなり、一に時に約するとは仏・法華経を四十余年の間未だ時至らざるが故に護念し給うなり、二に機に約するとは破法不信故墜於三悪道の故に前四十余年の間に未だ之を説かざるなり、三に人に約するとは舎利弗に対して説かんが為なり、四に本迹に約するとは護を以て本と為し念を以て迹と為す、五に色心に約するとは護を以て色と為し念を以て心と為す、六に法体に約するとは法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり、七に信心に約するとは信心を以て護念の本と為すなり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら護念の体を開くなり、護とは仏見なり、念とは仏知なり此の知見の二字本迹両門なり仏知を妙と云うなり仏見を法と云うなり此の知見の体を修行するを蓮華と云うなり、因果の体なり因果の言語は経なり加之法華経の行者をば三世の諸仏護念し給うなり、普賢品に云く一者為諸仏護念と護念とは妙法蓮華経なり諸仏の法華経の行者を護念したもうは妙法蓮華経を護念したもうなり機法一同護念