Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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顕謗法抄  (5/18) 此の地獄に堕ちたる者・これ程久しく無間地獄…
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はかりをもうべきか。

第八に大阿鼻地獄とは又は無間地獄と申すなり欲界の最底大焦熱地獄の下にあり此の地獄は縦広八万由旬なり、外に七重の鉄の城あり地獄の極苦は且く之を略す前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり、此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事他化自在天の楽みの如し、此の地獄の香のくささを人かくならば四天下・欲界・六天の天人・皆ししなん、されども出山・没山と申す山・此の地獄の臭き気を・をさへて人間へ来らせざるなり、故に此の世界の者死せずと見へぬ、若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はずとみへたり、此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり一中劫と申すは此の人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり、此の地獄に堕ちたる者・これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり、業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし、五逆罪と申すは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧なり、今の世には仏ましまさず・しかれば出仏身血あるべからず、和合僧なければ破和合僧なし、阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし、但殺父・殺母の罪のみありぬべし、しかれども王法のいましめきびしく・あるゆへに此の罪をかしがたし、若爾らば当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし但し相似の五逆罪これあり木画の仏像・堂塔等をやきかの仏像等の寄進の所をうばいとり率兜婆等をきりやき智人を殺しなんどするもの多し、此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし、されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか又謗法の者この地獄に堕つべし。

第二に無間地獄の因果の軽重を明さば、問うて云く五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕んことあるべし


や、答えて云く誹謗正法の重罪なり、問うて云く証文如何、答えて云く法華経第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等と云云、此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見へたり、問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何、答て云く大品経に云く「舎利弗仏に白して言く世尊五逆罪と破法罪と相似するや、仏舎利弗に告わく相似と言うべからず所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祗の罪を得るなり無量無辺阿僧祗の罪を得已つて則ち無量無辺阿僧祗の憂苦を受るなり」文又云く「破法の業因縁集るが故に無量百千万億歳大地獄の中に堕つ、此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る若し劫火起る時は他方の大地獄の中に至る、是くの如く十方に徧くして彼の間に劫火起る故に彼より死し破法の業因縁未だ尽きざるが故に是の間の大地獄の中に還来す」等と云云、法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り悪口罵詈して言く是れ無智の比丘と、或は杖木瓦石を以て之れを打擲す乃至千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」等と云云、此の経文の心は法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」等と云云。

第三に問答料簡を明さば問うて云く五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ謗法の相貌如何、答えて云く天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり、問うて云く委細に相貌をしらんとを


もうあらあら・しめすべし、答えて云く涅槃経第五に云く「若し人有りて如来は無常なりと言わん云何ぞ是の人舌堕落せざらん」等云云、此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云、問うて云く諸の小乗経に仏を無常と説かるる上又所化の衆皆無常と談じき若爾らば仏・並に所化の衆の舌堕落すべしや、答えて云く小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか、大乗経に向つて仏を無常と談じ小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか、此れをもつて・をもうにをのれが依経には随えども依経より・すぐれたる経を破するは破法となるか、若爾らば設い観経・華厳経等の権大乗経の人人・所依の経の文の如く修行すともかの経にすぐれたる経経に随はず又すぐれざる由を談ぜば謗法となるべきか、されば観経等の経の如く法をえたりとも観経等を破せる経の出来したらん時・其の経に随わずば破法となるべきか、小乗経を以て・なぞらえて心うべし。

問うて云く雙観経等に乃至十念・即得往生なんと・とかれて候が彼のけうの教の如く十念申して往生すべきを後の経を以て申しやぶらば謗法にては候まじきか、答えて云く仏・観経等の四十余年の経経を束て未顕真実と説かせ給いぬれば此の経文に随つて乃至十念・即得往生等は実には往生しがたしと申す此の経文なくば謗法となるべし、問うて云く或人云く無量義経の四十余年未顕真実の文はあえて四十余年の一切の経経・並に文文・句句を皆未顕真実と説き給にはあらず、但四十余年の経経に処処に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給い釈迦如来を始成正覚と説き給しを其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなりあえて余事にはあらず、而るをみだりに四十余年の文を見て観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを妄りに往生はなき事なりなんど押し申すあに・をそろしき謗法の者にあらずや・なんど申すはいかに、答えて云く此の料簡は東土の得一が料簡に似たり、得一が云く未顕真実とは決定性の二乗を仏・爾前の経にして永不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるるなり前四味の一切には亘るべからずと申しき、伝教大師は前四味に亘りて文文句句に未顕真実と立て給いき、さればこの料簡