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日蓮大聖人・池田大作

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時光御返事  (2/2) 迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一…
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変じて金となる・金変じて死人となる・死人変じて又金人となる・指をぬいて売れば本のごとし、かくのごとく九十一劫・長者に生れ今はあなりちと申して仏の御弟子なり、わづかの・ひえなれども飢えたる国に智者の御いのちを・つぐゆへに・めでたきほうをう。

迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一にたとき人なり、此の人の家をたづぬれば摩かだい国の尼くりだ長者の子なり、宅にたたみ千でうあり・一でうはあつさ七尺下品のたたみは金千両なり、からすき九百九十九・一のからすきは金千両、金三百四十石入れたるくら六十・かかる大長者なり、めは又身は金色にして十六里をてらす、日本国の衣通姫にもすぎ・漢土のりふじんにもこえたり、此の夫婦道心を発して仏の御弟子となれり、法華経にては光明如来といはれさせ給う、此の二人の人人の過去をたづねれば麦飯を辟支仏に供養せしゆへに迦葉尊者と生れ、金のぜに一枚を仏師にあつらへて毘婆尸仏の像の御はくにひきし貧人は此の人のめとなれり。

今日蓮は聖人にはあらざれども法華経に御名をたてり、国主ににくまれて我が身をせく上・弟子かよう人をも・或はのり・或はうち・或は所領をとり・或はところをおふ、かかる国主の内にある人人なれば・たとひ心ざしあるらん人人もとふ事なし、此の事事ふりぬ、なかにも今年は疫病と申し飢渇と申しとひくる人人もすくなし、たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべきに・麦の御とぶらい金にもすぎ珠にもこえたり、彼のりだがひゑは変じて金人となる、此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん、此の法華経の文字は釈迦仏となり給い・時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へかけり給へ、かへりて時光が身をおほひ・はぐくみ給へ、恐恐謹言。

  弘安元年七月八日                  日蓮花押

   上野殿御返事


上野殿御返事

                    弘安元年九月十九日 五十七歳御作

                    与 南条時光

塩一駄はじかみ送り給び候。

金多くして日本国の沙のごとくならば誰か・たからとして・はこのそこにおさむべき、餅多くして一閻浮提の大地のごとくならば誰か米の恩を・おもくせん。

今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず、富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまる事なし、七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし、何を以てか・かうべき、みそも・たえぬ、小児のちをしのぶがごとし。

かかるところに・このしほを一駄給びて候御志・大地よりもあつく虚空よりもひろし、予が言は力及ぶべからずただ法華経と釈迦仏とに・ゆづりまいらせ候、事多しと申せども紙上には・つくしがたし、恐恐謹言。

  弘安元年九月十九日                 日蓮花押

   上野殿御返事


上野殿御返事

                    弘安元年十月十二日 五十七歳御作

                    与 南条時光

いゑのいも一駄・かうじ一こ・ぜに六百のかわり御ざのむしろ十枚給び畢んぬ。

去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて堯舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし、去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか、自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす、民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬と猨猴とのあへるがごとし、慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり、又疫病もしばらくは・やみてみえしかども・鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にやみなげくよしきこへ候、かかるよにいかなる宿善にか・法華経の行者をやしなわせ給う事ありがたく候ありがたく候、事事見参の時申すべし、恐恐謹言。

  弘安元年後十月十二日                日蓮花押

   上野殿御返事