Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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女人成仏抄  (1/4) 魔をば奪功徳者といふ
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奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむゆへに後生には無間獄に堕す、人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす、餓鬼といふは我をくらふといふ是なり、智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば死人の身は人身・心は法身・生身得忍といへる法門是なり、華厳・方等・般若の円をさとれる智者は死人の骨を生身得忍と成す、涅槃経に身は人身なりと雖も心は仏心に同ずといへるは是なり、生身得忍の現証は純陀なり、法華を悟れる智者・死骨を供養せば生身即法身・是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり、即身の二字は色法成仏の二字は心法・死人の色心を変えて無始の妙境・妙智と成す是れ則ち即身成仏なり、故に法華経に云く「所謂諸法如是相死人の身如是性同く心如是体同く色心等」云云、又云く「深く罪福の相に達して徧く十方を照したまう微妙の浄き法身・相を具せること三十二」等云云、上の二句は生身得忍・下の二句は即身成仏・即身成仏の手本は竜女是なり・生身得忍の手本は純陀是なり。

女人成仏抄

                      文永二年 四十四歳御作

提婆品に云く「仏告諸比丘未来世中乃至蓮華化生」等云云、此の提婆品に二箇の諫暁あり所謂達多の弘経・釈尊の成道を明し又文殊の通経・竜女の作仏を説く、されば此の品を長安宮に一品切り留めて二十七品を世に流布する間秦の代より梁の代に至るまで七代の間の王は二十七品の経を講読す、其の後満法師と云いし人此の品法華経になき由を読み出され候いて後長安城より尋ね出し今は二十八品にて弘まらせ給う、さて此の品に浄心信敬の人


のことを云うに一には三悪道に堕せず二には十方の仏前に生ぜん三には所生の処には常に此の経を聞かん四には若し人天の中に生ぜば勝妙の楽を受けん五には若し仏前に在らば蓮華より化生せんとなり、然るに一切衆生は法性真如の都を迷い出でて妄想顛倒の里に入りしより已来身口意の三業になすところ善根は少く悪業は多し、されば経文には一人一日の中に八億四千念あり念念の中に作す所皆是れ三途の業なり等云云、我等衆生三界二十五有のちまたに輪回せし事・鳥の林に移るが如く死しては生じ生じては死し車の場に回るが如く始め終りもなく死し生ずる悪業深重の衆生なり、爰を以て心地観経に云く「有情輪回して六道に生ずること猶車輪の始終無きが如く或は父母と為り男女と為り生生世世互いに恩有り」等云云、法華経二の巻に云く「三界は安きこと無し猶火宅の如く衆苦充満せり」云云、涅槃経二十二に云く「菩薩摩訶薩諸の衆生を観ずるに色香味触の因縁の為の故に昔無量無数劫より以来常に苦悩を受く、一一の衆生一劫の中に積る所の身の骨は王舎城の毘富羅山の如く飲む所の乳汁は四海の水の如く身より出す所の血は四海の水より多く父母・兄弟・妻子・眷属の命終に涕泣して出す所の目涙は四大海の水より多し、地の草木を尽くして四寸の籌と為して以て父母を数うるに亦尽くすこと能わじ、無量劫より已来或は地獄・畜生・餓鬼に在つて受くる所の行苦称計す可からず亦一切衆生の骸骨をや」云云、是くの如くいたづらに命を捨るところの骸骨は毘富羅山よりも多し恩愛あはれみの涙は四大海の水よりも多けれども仏法の為には一骨をもなげず、一句一偈を聴聞して一滴の涙をも・おとさぬゆへに三界の籠樊を出でずして二十五有のちまたに流転する衆生にて候なり、然る間如何として三界を離るべきと申すに仏法修行の功力に依つて無明のやみはれて法性真如の覚を開くべく候、さては仏法は何なるをか修行して生死を離るべきぞと申すに但一乗妙法にて有るべく候、されば慧心僧都・七箇日・加茂に参籠して出離生死は何なる教にてか候べきと祈請申され候いしに明神御託宣に云く「釈迦の説教は一乗に留まり諸仏の成道は妙法に在り菩薩の六度は蓮華に在り二乗の得


道は此の経に在り」云云、普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」云云、此の経より外はすべて成仏の期有るべからず候上殊更女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず、結句爾前の経にては・をびただしく嫌はれたり、されば華厳経に云く「女人は地獄の使なり能く仏の種子を断ず外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」云云、銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」云云、或は又女人には五障三従の罪深しと申す、其れは内典には五障を明し外典には三従を教えたり、其の三従とは少くしては父母に従ひ盛にしては夫に従ひ老いては子に従ふ一期身を心に任せず、されば栄啓期が三楽を歌ひし中にも女人と生れざるを以て一楽とす、天台大師云く「他経には但菩薩に記して二乗に記せず但男に記して女に記せず」とて全く余経には女人の授記これなしと釈せり、其上釈迦・多宝の二仏・塔中に並坐し給ひし時・文殊・妙法を弘めん為に海中に入り給いて・仏前に帰り参り給いしかば宝浄世界の多宝仏の御弟子・智積菩薩は竜女成仏を難じて云く「我釈迦如来を見たてまつれば無量劫に於て難行苦行し功を積み・徳を累ね・菩薩の道を求むること未だ曾つて止息したまわず、三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許りも是れ菩薩の身命を捨てたもう処に非ざること有ること無し、衆生の為の故なり」等云云、所謂智積・文殊・再三問答いたし給う間は八万の菩薩・万二千の声聞等何れも耳をすまして御聴聞計りにて一口の御助言に及ばず、然るに智慧第一の舎利弗・文殊の事をば難ずる事なし多くの故を以て竜女を難ぜらる・所以に女人は垢穢にして是れ法器に非ずと小乗権教の意を以て難ぜられ候いしかば文殊が竜女成仏の有無の現証は今仏前にして見え候べしと仰せられ候いしに、案にたがはず八歳の竜女蛇身をあらためずして仏前に参詣し価直三千大千世界と説かれて候・如意宝珠を仏に奉りしに、仏悦んで是を請取り給いしかば此の時智積菩薩も舎利弗も不審を開き女人成仏の路をふみわけ候、されば女人成仏の手本是より起つて候・委細は五の巻の経文之を読む可く候、伝