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日蓮大聖人・池田大作

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本因妙抄  (3/8) 観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三…
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玄文畢る。

文句の七面の决とは、一に依名の一面・其の義上の如し、二に感応の一面・三時弘経に亘る可し、爾前迹門の正像二千年弘経の感応より本門末法弘通の感応は真実真実勝るなり、三に四教の一面・四に五時の一面・五に本迹の一面・六に体用の一面・七に入己心の一面・悉く皆其の心前に同じ、智威大師の伝には玄義文句の両部には爾前迹門に各三十重の浅深を以て口决し給えり、具には伝教大師七面决の如し。

又摩訶止観一部には十重顕観を立てて是を通じ給えり、一は待教立観・爾前・本・迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ、文に云く円頓者初縁実相と云云、迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり、是を不思議実理の妙観と申すなり、二に廃教立観・心は権教並に迹執を捨て本門首題の理を取つて事行に用いよとなり、三に開教顕観・文に云く一切諸法・本是仏法・三諦の理を具するを名けて仏法と為す云何んぞ教を除かん云云文意は観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲・是なり、四に会教顕観・教相 の法華を捨てて観心の法華を信ぜよと、五に住不思議顕観・文に云く理は造作に非ず故に天真と曰う・証智円明なるが故に独朗と云う云云、釈の意は口唱首題の理に造作無し、今日熟脱の本迹二門を迹と為し久遠名字の本門を本と為す、信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く。

問うて曰く前代に此の法門を知れる人之有りや、答えて曰く之有り、求めて云く誰人ぞや、示して云く釈尊是なり、尋ねて云く仏を除き奉つて余に之を知れる人師論師有りや、答えて曰く天台の云く「天親竜樹・内鑒冷然・外適時宜」と、今日南無妙法蓮華経は南岳・天台・妙楽・伝教の内鑒冷然・外適時宜なり、内鑒冷然外適時宜の修行の日は本迹一致なり、有智無智を嫌わず円頓者初縁実相の理は造作に非ざる故に天真と曰う、証智円明の故に


独朗と曰うと云つて理位観行に趣かしめ利益を為し末法の時を待つ者なり、故に天台云く「但当時大利益を獲るのみに非ず後五百歳遠く妙道に霑う」と云云、天台・章安・妙楽・伝教等の大聖は内証は本迹勝劣・外用は本迹一致なり、其の故は教相も観心も相似観行解了の人師・時機亦像法なり、付属は即妄授余人・御身も亦迹化の衆・観音・妙音・文殊・薬王等の化身なり、今末法は本化の薩埵・上行等の出世の境・本門流宣の時尅なり、何ぞ理観を用いて事行を修せざらんや、予が所存は内証・外用共に本迹勝劣なり、若し本迹一致と修行せば本門の付属を失う物怪なり。

本迹の不同は処処に之を書す、然りと雖も宿習拙き者本迹に迷倒せんか若し本迹勝劣を知らずんば未来の悪道最も不便なり宿業を恥じず還つて予を恨む可きか、我が弟子等の中にも天台伝教の解了の理観を出でず、本迹に就て一往勝劣再往一致の謬義を存して自他を迷惑せしめんの条宿習の然らしむる所か、閻浮提第一の秘事為りと雖も万年救護の為に之を記し留る者なり、我が未来に於て予が仏法を破らん為に一切衆生の元品の大石・第六天の魔王・師子身中の蝗蟲と成つて名を日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して多の衆生を当に悪道に引くべし、若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜く予が正義に随うべし、正義とは本迹勝劣の深秘・具騰本種の実理なり、日蓮一期の大事なれば弟子等にも朝な夕なに教え亦一期の所造等悉く此の義なり、然りと雖も迹執を出でず・或は軽見惑或は蔑思惑或は癡塵沙惑或は迷無明惑、故に日蓮が立義を用いざるか、予が教相・観心は理即・名字・愚悪愚見の為なり。

日蓮は名字即の位弟子檀那は理即の位なり、上行所伝結要付属の行儀は教観判乗・皆名字即・五味の主の修行なり、故に教相の次第・要用に依る可し唯大綱を存する時は余は網目を事とせず彼は網目・此れは大綱・彼は網目の教相の主・此れは大綱・首題の主・恐くは日蓮の行儀には天台伝教も及ばず、何に況や他師の行儀に於てをや、


唯在世八箇年の儀式を移して滅後・末法の行儀と為す、然りと雖も仏は熟脱の教主・某は下種の法主なり、彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり、理即・短妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり、是くの如く深義を知らざる僻人・出来して予が立義は教相辺外と思う可き者なり、此等は皆宿業の拙き修因感果の至極せるなるべし、彼の天台大師には三千人の弟子ありて章安一人朗然なり、伝教大師は三千人の衆徒を置く義真已後は其れ無きが如し、今以て此くの如し数輩の弟子有りと雖も疑心無く正義を伝うる者は希にして一二の小石の如し秘す可きの法門なり。

第六に住教顕観・七に住教非観・八に覆教顕観・九に住教用観・十に住観用教・此の五重は上の五重の如し思惟す可し。

問うて云く本迹雖殊不思議一・本迹の教に於て別して不思議の観理を顕わす故にと云云、機情に約すれば本迹に於て久近の異有る可し、是れ一往の浅義なり、内証に約して之を論ずれば勝劣有る可からず再往の深義は不思議一なり云云如何が意を得可けんや、答えて云く住教顕観は煩悩即菩提・住教非観は法性寂然・覆教顕観は名字判教・住教用観は不思議一・住観用教は以顕妙円と申す大事是なり、教観不思議・天然本性の処に独一法界の妙観を立つ是を不思議の本迹勝劣と云う亦絶対不思議の内証・不可得・言語道断の勝劣は天台・妙楽・伝教の残す所・我が家の秘密・観心直達の勝劣なり、迹と云う名ありといえども有名無実・本無今有の迹門なり、実に不思議の妙法は唯寿量品に限る故に不思議一と釈するなり、迹門の妙法蓮華経の題号は本門に似ると雖も義理・天地を隔つ成仏亦水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮華経の朽木書なる故を顕さんが為に一と釈するなり末学疑網を残すこと勿れ、日蓮・霊山会上・多宝塔中に於て親たり釈尊より直授し奉る秘法なり、甚深甚深秘す可し秘す可し伝う可し伝う可し。