Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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月水御書  (4/4) 長病の様なる物
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しても・あそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉・薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候。

又御消息の状に云く日ごとに三度づつ七つの文字を拝しまいらせ候事と、南無一乗妙典と一万遍申し候事とをば日ごとにし候が、例の事に成つて候程は御経をばよみまいらせ候はず、拝しまいらせ候事も一乗妙典と申し候事も・そらにし候は苦しかるまじくや候らん、それも例の事の日数の程は叶うまじくや候らん、いく日ばかりにて・よみまいらせ候はんずる等と云云、此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問せ給い候御事にて侍り、又古へも女人の御不審に付いて申したる人も多く候へども一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に証文分明に出したる人もおはせず、日蓮粗聖教を見候にも酒肉・五辛・婬事なんどの様に不浄を分明に月日をさして禁めたる様に月水をいみたる経論を未だ勘へず候なり、在世の時多く盛んの女人・尼になり仏法を行ぜしかども月水の時と申して嫌はれたる事なし、是をもつて推し量り侍るに月水と申す物は外より来れる不浄にもあらず、只女人のくせかたわ生死の種を継ぐべき理にや、又長病の様なる物なり例せば屎尿なんどは人の身より出れども能く浄くなしぬれば別にいみもなし是体に侍る事か。

されば印度・尸那なんどにも・いたくいむよしも聞えず、但し日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す


強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり、若し然らば此の国の明神・多分は此の月水をいませ給へり、生を此の国にうけん人人は大に忌み給うべきか、但し女人の日の所作は苦しかるべからずと覚え候か、元より法華経を信ぜざる様なる人人が経をいかにしても云いうとめんと思うが・さすがに・ただちに経を捨てよとは云いえずして、身の不浄なんどにつけて法華経を遠ざからしめんと思う程に、又不浄の時・此れを行ずれば経を愚かにしまいらする・なんど・おどして罪を得させ候なり、此の事をば一切御心得候て月水の御時は七日までも其の気の有らん程は御経をば・よませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と唱えさせ給い候へ、礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給うべし、又不慮に臨終なんどの近づき候はんには魚鳥なんどを服せさせ給うても候へ、よみぬべくば経をもよみ及び南無妙法蓮華経とも唱えさせ給い候べし、又月水なんどは申すに及び候はず又南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか、是れ子細ありてかくの如くは申し候なり、穴賢穴賢。

  文永元年甲子四月十七日               日蓮花押

   大学三郎殿御内御報

大学三郎殿御書

                    建治元年七月 五十四歳御作

外道には天・人・畜の三善道を明し鬼道の有無之を論じて地獄道は其の沙汰無し、小乗経には六道の因果を明して四聖の因果以て分明ならず、倶舎・成実・律の三宗は小乗経に依憑して但六道を明す是なり、三論宗は天台宗已前に天竺より之を渡す八界を立てて十界を明さず、法相宗は又天竺の宗なり天台已後に唐の太宗の世に之を渡


す、又八界を立つ大乗為りと雖も五性各別を立て無性有情は永く成仏せずと之を立つ殆んど外道の法に似たり自他宗の歎きなり、華厳宗・真言宗の両宗は天台已後に之有り、華厳宗は唐の則天皇后の御宇に之を立つ、真言宗は玄宗の時善無畏三蔵之を渡す但し天竺に真言宗の名之無し無畏三蔵・大日経を以て宗と為すの故に猥りに天竺の宗と称するか、此の二宗共に十界を立つ但し天台宗已後なり智者大師の巧智を偸盗して自身の才能と号するか。

仏説の如く之を勘うれば法華経の外華厳経・大集経・般若経・大日経・深密経等の諸経は但小衍相対なり但法華経計りに限つて已今当を以て眷属の修多羅と為す、然りと雖も天台已前の諸師・法華経等の一切の大乗経を小衍相対を以て之を釈す、王臣の差別無く上下之を混す仏法未だ顕れず愚癡の失之有り、天台已後に諸宗小衍相対の経経を以て権実相対之を定む、天台の智之を盗めり、日月に背いて灯炷に向い・丘塚を華恒に比する是なり、仏は十八界・修羅は十九界・天台は四智・真言は五智・天台は九識十識・真言は十識十一識・而るを天台の学者之に誑惑せられ悉く実義なりと思い、「法華経は釈尊の所説にて民の万言の如く大日経は天子の鳳文にて王の一言の如し」等云云、善無畏三蔵・事を天竺に寄せ法華経と大日経と理同事勝と立つ是れ一の謬言なり、日蓮は論師・人師の添言を捨てて専ら経文を勘うるに大日経一部六巻並びに供養法の巻一巻三十一品之を見聞するに声聞乗と縁覚乗と大乗の菩薩と仏乗の四乗之を説く、其の中の大乗の菩薩乗とは三蔵教の三祇の菩薩乗なり仏乗は実大乗なり法華経に及ばざるの上・華厳・般若にも劣り但だ阿含と方等との二経なり、大日経の極理は未だ天台の別教・通教の極理にも及ばざるなり。

弘法大師・延暦二十三年に入唐し大同二年に帰朝す、三箇年の間・慧果和尚に値いて真言の秘教を学習し帰朝の後十住心二教論之を注して世間に流布す、釈迦牟尼仏並びに大日経二仏の所説の勝劣之を定む、第一大日経・第