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日蓮大聖人・池田大作

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報恩抄  (21/37) 正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者…
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迅流は櫓をささへざれば波たかからず盗人はとめざれば・いからず火は薪を加えざれば・さかんならず、謗法はあれども・あらわす人なければ王法もしばらくはたえず国も・をだやかなるに・にたり、例せば日本国に仏法わたりはじめて候いしに始は・なに事もなかりしかども守屋・仏をやき僧をいましめ堂塔をやきしかば天より火の雨ふり国にはうさうをこり兵乱つづきしがごとし、此れはそれには・にるべくもなし、謗法の人人も国に充満せり、日蓮が大義も強くせめかかる修羅と帝釈と仏と魔王との合戦にも・をとるべからず、金光明経に云く「時に鄰国の怨敵是くの如き念を興さん当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云、又云く「時に王見已つて即四兵を厳いて彼の国に発向し討罰を為んと欲す我等爾の時に当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云、最勝王経の文又かくのごとし、大集経云云仁王経云云、此等の経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ、例せば訖利多王を雪山下王のせめ大族王を幻日王の失いしがごとし、訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし、漢土にも仏法をほろぼしし王みな賢王にせめられぬ、これは彼には・にるべくもなし仏法の・かたうど・なるようにて仏法を失なう法師を扶くと見えて正法の行者を失うゆへに愚者はすべてしらず智者なんども常の智人はしりがたし、天も下劣の天人は知らずもやあるらん、されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。

法滅尽経に云く「吾般泥洹の後五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作つて吾が道を壊乱せん、乃至悪人転多く海中の沙の如く善者甚だ少して若しは一若しは二」云云、涅槃経に云く「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは爪上の土の如く乃至是の経を信ぜざるものは十方界の所有の地土の如し」等云云、此の経文は時に当りて貴とく予が肝に染みぬ、当世日本国には我も法華経を信じたり信じたり、諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし、此


の経文には末法に謗法の者・十方の地土・正法の者爪上の土等云云、経文と世間とは水火なり、世間の人云く日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云、又経文には大地より多からんと云云、法滅尽経には善者一二人、涅槃経には信者爪上土等云云、経文のごとくならば日本国は但日蓮一人こそ爪上土一二人にては候へ、されば心あらん人人は経文をか用ゆべき世間をか用ゆべき。

問て云く涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云、汝が義には法華経等云云如何、答えて云く涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云、妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云、大経と申すは涅槃経なり涅槃経には法華経を極と指て候なり、而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり、涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり、譬へば賢人は国主を重んずる者をば我を・さぐれども悦ぶなり、涅槃経は法華経を下て我をほむる人をば・あながちに敵と・にくませ給う、此の例をもつて知るべし華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣とよむは彼れ彼れの経経の心にはそむくべし、此れをもつて知るべし法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども諸経にても得道なるとおもうは此の経をよまぬ人なり、例せば嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く「毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん」等云云、法華経をやぶる人なりされば嘉祥は落ちて天台につかひて法華経をよまず我れ経をよむならば悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき、慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文・十巻あり伝教大師せめて云く「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」等云云、此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし、弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや、嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも猶已前の法華経・誹謗の罪や・きへざるらん、例せば不軽軽毀の衆は不軽菩薩に信伏随従せしかども重罪いまだ・のこり


て千劫阿鼻に堕ちぬ、されば弘法・慈覚・智証等は設いひるがへす心ありとも尚法華経をよむならば重罪きへがたしいわうや・ひるがへる心なし、又法華経を失い真言教を昼夜に行い朝暮に伝法せしをや、世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもつて大を破せる罪をば舌を切らんとこそせさせ給いしか、世親菩薩は仏説なれども阿含経をば・たわふれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給き、嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして五体を地になげ遍身にあせをながし紅の・なんだをながして今よりは弟子を見じ法華経をかうぜじ弟子の面を・まほり法華経をよみたてまつれば我力の此の経を知るににたりとて・天台よりも高僧老僧にて・おはせしが・わざと人のみるとき・をひまいらせて河をこへ・かうざに・ちかづきて・せなかにのせまいらせて高座にのぼせたてまつり結句・御臨終の後には隋の皇帝にまいらせて小児が母にをくれたるがごとくに足ずりをしてなき給いしなり、嘉祥大師の法華玄を見るにいたう法華経を謗じたる疏にはあらず但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ此れが謗法の根本にて候か。

華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一とこそ・かかれて候へ、嘉祥大師・とがあらば善無畏三蔵も脱がたしされば善無畏三蔵は中天の国主なり位をすてて他国にいたり殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ百千の石の塔を立てしかば法華経の行者とこそみへしか、しかれども大日経を習いしよりこのかた法華経を大日経に劣るとや・おもひけん、始はいたう其の義もなかりけるが漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ、天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽に頓死して二人の獄卒に鉄の縄七すぢつけられて閻魔王宮にいたりぬ、命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん真言の観念・印・真言等をば・なげすてて法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れかへされ給いぬ、又雨のいのりを・おほせつけられたりしに忽に雨は下たりしかども大風吹きて国をやぶる、結句死し給いてありしには弟子等集りて臨終いみじきやうを・