Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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撰時抄  (37/37) 日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし…
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等がのりせめ刀杖に及んで身命をうばうともみへたり、又涅槃経の文に寧喪身命等ととかれて候は次下の経文に云く「一闡提有り羅漢の像を作し空処に住し方等経典を誹謗す、諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩薩なりと謂わん」等云云、彼の法華経の文に第三の敵人を説いて云く「或は阿蘭若に納衣にして空閑に在つて乃至世に恭敬せらるること六通の羅漢の如き有らん」等云云、般泥洹経に云く「羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず」等云云、此等の経文は正法の強敵と申すは悪王悪臣よりも外道魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし、されば妙楽大師かいて云く「第三最も甚し後後の者は転識り難きを以ての故なり」等云云、法華経の第五の巻に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、此の経文に最在其上の四字あり、されば此の経文のごときんば法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか、而るを又国王に尊重せらるる人人あまたありて、法華経にまさりてをはする経経ましますと申す人にせめあひ候はん時、かの人は王臣に御帰依あり法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞつてこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく賢愛論師がごとく申しつをらば身命に及ぶべし、此れが第一の大事なるべしとみへて候此の事は今の日蓮が身にあたれり、予が分斉として弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんどを法華経の強敵なり経文まことならば無間地獄は疑なしなんど申すは裸形にて大火に入るはやすし須弥を手にとてなげんはやすし大石を負うて大海をわたらんはやすし日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし云云。

霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等・梵釈・日月・四天等・冥に加し顕に助け給はずば一時一日も安穏なるべしや。


報恩抄

                    日蓮之を撰す

夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、されば古への賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあてこう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり、いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか、譬へば衆盲をみちびかんには生盲の身にては橋河をわたしがたし方風を弁えざらん大舟は諸商を導きて宝山にいたるべしや、仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず、この義は諸人をもはく顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう、しかれども外典の孝経にも父母主君に随はずして忠臣・孝人なるやうもみえたり、内典の仏経に云く「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云、比干が王に随わずして賢人のなをとり悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

かくのごとく存して父母・師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に一代聖教をさとるべき明鏡十あり、所謂る倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり此の十宗を明師として一切経の心をしるべし世間の学者等おもえり此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと小乗の三宗はしばらく・これををく民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし、大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば此を習いほどひて我がみも助け人をも・みちびかんとおもひて習ひみるほどに大乗の七宗いづれも・いづれも自讃あり我が宗こそ一代の心はえたれ・えたれ等云云、所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈


恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等、此等の宗宗みな本経・本論によりて我も我も一切経をさとれり仏意をきはめたりと云云、彼の人人云く一切経の中には華厳経第一なり法華経大日経等は臣下のごとし、真言宗の云く一切経の中には大日経第一なり余経は衆星のごとし、禅宗が云く一切経の中には楞伽経第一なり乃至余宗かくのごとし、而も上に挙ぐる諸師は世間の人人・各各おもえり諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随うがごとし我等凡夫はいづれの師師なりとも信ずるならば不足あるべからず仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし、世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる一切経も又かくのごとくや有るらん何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ、而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり、此の経に又云く「了義経に依つて不了義経に依らざれ」等云云、此の経に指すところ了義経と申すは法華経・不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり、されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。

随つて法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居がごとく輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく衆木の頂に月のやどるがごとく諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。