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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (7/41) 父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち…
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心を含容するを多と云うなり、諸経・諸人に勝れたるが故に勝と云うなり、一切心に法界を尽す一心とは法華経の信心なり、信心即一念三千なり云云。

一爾時世尊の事

仰に云く世尊とは釈迦如来・所詮世尊とは孝養の人を云うなり、其の故は不孝の人をば世尊とは云わず教主釈尊こそ世尊の本にては御座候え、父浄飯王・母摩耶夫人を成道せしめ給うなり・されど今経の座には父母御座さざれば方便土へ法華経をば送らせ給うなり、彼土得聞とは是なり、但し法華経の心は十方仏土中・唯有一乗法なり忉利天に母摩耶夫人生じ給えり、忉利天に即したる寂光土なり、方便土に即したる寂光土なり、四土一念・皆常寂光なれば、何れも法華経の説処なり、虚空会の時の説法華に豈忉利天もるべきや寂光土の説法華に豈方便土もるべきや、何れも法華経の説所なれば同聞衆の人数なり云云。

一浄飯王摩耶夫人成仏証文の事

仰に云く方便品に云く我始坐道場・観樹亦経行の文是なり、又寿量品に云く、然我実成仏已来の文是なり、教主釈尊の成道の時・浄飯王も摩耶も得道するなり、本迹二門の得道の文是なり云云、此の文日蓮が己心の大事なり、我始と我実との文・能く能く之を案ず可し、其の故は爾前経の心は父子各別の談道なり、然る間成仏之れ無し、今の経の時・父子の天性を定め父子一体と談ぜり・父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり、釈尊の我始坐道場の時・浄飯王・摩耶夫人も同時に成道なり、釈尊の我実成仏の時・浄飯王・摩耶夫人同時なり始本共に同時の成道なり、此の法門は天台・伝教等を除いて知る人一人も之れ有る可からず、末法に入つて日蓮等の類・堅く秘す可き法門なり、譬えば蓮華の華菓の相離せざるが如くなり、然れば法華経の行者は男女悉く世尊に非ずや、薬王品に云く於一切衆生中亦為第一文、此れ即ち世尊の経文に非ずや、是真仏子なれば法王の子にして世尊第一に非ずや。

一方便品の事

妙法蓮華経の五字とは名体宗用教の五重玄義なり、されば止観に十章を釈せり此の十章即ち


妙法蓮華経の能釈なり、夫れとは釈名は名玄義なり、体相摂法の二は体玄義なり、偏円の一は教玄義なり、方便・正観・果報の三は宗玄義なり、起教の一は用玄義なり、始の大意の章と終の旨帰との二をば之を除く、此の意は止観一部の所詮は大意と旨帰とに納れり無明即明の大意なる故なり、無明とも即明とも分別せざるが旨帰なり、今妙法蓮華経の五重玄義を修行し奉れば・煩悩即菩提・生死即涅槃の開悟を得るなり、大意と旨帰とは法華の信心の事なるべし、以信得入・非己智分とは是なり、我等衆生の色心の二法は妙法の二字なり無始色心・本是理性・妙境妙智と開覚するを大意と云うなり、大は色法の徳・意は心法の徳なり大の字は形に訓ぜり、今日蓮等の類・南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賤・等の色心本有の妙境妙智なり、父母果縛の肉身の外に別に三十二相・八十種好の相好之れ無し即身成仏是なり、然る間大の一字に法界を悉く収むるが故に法華経を大乗と云うなり、一切の仏菩薩・聖衆・人畜・地獄等の衆生・の智慧を具足し給うが故に・仏意と云うなり、大乗と云うも同じ事なり是れ即ち妙法蓮華経の具徳なり、されば九界の衆生の意を以て仏の意とす、一切経の心を以て法華経の意とす、於一仏乗分別説三とは是なり、かかる目出度き法華経を謗じ奉る事・三世の諸仏の御舌を切るに非ずや、然るに此の妙法蓮華経の具徳をば仏の智慧にてもはかりがたく何に況や菩薩の智力に及ぶ可けんや、之に依つて大聖塔中偈の相伝に云く、一家の本意は只一言を以て本と為す云云、此の一言とは寂照不二の一言なり或は本末究竟等の一言とも云うなり、真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり、本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一仏所成就第一希有難解之法唯仏与仏の事

仰に云く仏とは釈尊の御事なり、成就とは法華経なり、第一は爾前の不第一に対し・希有は爾前の不希有に対し・難解之法は爾前の不難解に対したり、此の仏と申すは諸法実相なれば十界の衆生を仏とは云うなり、十界の衆生の語言音声成就にして法華経なり、三世の諸仏の出世の本懐の


妙法にして、優曇華の妙文なれば第一希有なり、九界の智慧は及ばざれば難解の法なり、成就とは我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃の事なり、権教の意は終に不成仏なれば成就には非ず、迹門には二乗成仏顕れたり、是れ即ち成就なり、是を仏所成就とは説かれたり、されば唯仏とは釈迦・与仏とは多宝なり、多宝涌現なければ与仏とは云いがたし、然りと雖も終には出現あるべき故に・与仏を多宝というなり、所詮日蓮等の類いの心は・唯仏は釈尊・与仏は日蓮等の類いの事なるべし、其の故は唯仏の唯を重ねて譬喩品には唯我一人と説けり、与仏の二字を重ねて、方便品の末に至つて若遇余仏と説けり、釈には深く円理を覚るは、之れを名けて仏と為すと釈せり、是れ即ち与仏と云うは法華経の行者男女の事なり、唯我一人の釈尊に与し上る仏なり、此の二仏寄り合いて、乃能究尽する所の諸法実相の法体なり、されば十如是と云うは十界なり、十界即十如是なり、十如是は即ち法華経の異名なり云云。

一十如是の事

仰に云く此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり、されば此の十如是を開覚しぬれば諸法に於て迷悟無く、実相に於て染浄無し、之れに依つて天台大師は止観の十章も此の十如是より釈出せり、然る間・十如是に過たる法門更に以て之れ無し、爰を以て和尚授けて云く十大章は是れ全く十如是・若し大意を覚る時・性如是の意を以て下の玄如の図を分別す可し、十如是を十大章に習う事は性如是は大意・相如是は釈名・体如是は体相・力如是は摂法・作如是は偏円・縁如是は方便・因如是は正観・果報如是は果報・本末究竟如是は旨帰なり、此の中に起教の章は化他利物果上化用と云うなり云云。

一自証無上道大乗平等法の事

仰に云く末法当今に於て大乗平等の法を証せる事・日蓮等の類いに限れりされば此の経文は教主大覚世尊・法華経の極理を証して番番に出世し給いて説き給うなり、所詮此の自証と云うは三十成道の時を指すなり、其の故は教主釈尊は十九出家・三十成道なり、然る間・自証無上道等文、所詮此の品の