Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

聖愚問答抄 上  (9/13) 経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨て…
482

を説き給ふとも経文を手に把らずば用ゐざれとなり、天台大師の云く「修多羅と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず」文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、前の釈と同意なり、竜樹菩薩の云く「修多羅白論に依つて修多羅黒論に依らざれ」と文、意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり、経文にも論文にも法華に対して諸余の経典を捨てよと云う事分明なり、然るに開元の録に挙る所の五千七千の経巻に法華経を捨てよ乃至抛てよと嫌ふことも又雑行に摂して之を捨てよと云う経文も全く無しされば慥の経文を勘へ出して善導・法然の無間の苦を救はるべし、今世の念仏の行者・俗男俗女・経文に違するのみならず又師の教にも背けり、五種の雑行とて念仏申さん人のすつべき日記・善導の釈之れ有り、其の雑行とは選択に云く「第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて已外大小乗顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く乃至第三に礼拝雑行とは上の弥陀を礼拝するを除いて已外一切諸余の仏菩薩等及諸の世天に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名く、第四に称名雑行とは上の弥陀の名号を称するを除いて已外自余の一切仏菩薩等及諸の世天等の名号を称するを悉く称名雑行と名く、第五に讃歎供養雑行とは上の弥陀仏を除いて已外一切諸余の仏菩薩等及諸の世天等に於て讃歎し供養するを悉く讃歎供養雑行と名く」文。

此の釈の意は第一の読誦雑行とは念仏申さん道俗男女読むべき経あり読むまじき経ありと定めたり、読むまじき経は法華経・仁王経・薬師経・大集経・般若心経・転女成仏経・北斗寿命経ことさらうち任せて諸人読まるる八巻の中の観音経・此等の諸経を一句一偈も読むならば・たとひ念仏を志す行者なりとも雑行に摂せられて往生す可からず云云・予愚眼を以て世を見るに設ひ念仏申す人なれども此の経経を読む人は多く師弟敵対して七逆罪となりぬ。

又第三の礼拝雑行とは念仏の行者は弥陀三尊より外は上に挙ぐる所の諸仏菩薩・諸天善神を礼するをば礼拝雑


行と名け又之を禁ず、然るを日本は神国として伊奘諾伊奘册の尊此の国を作り天照大神垂迹御坐して御裳濯河の流れ久しくして今にたえず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや、又普天の下に生れて三光の恩を蒙りながら誠に日月・星宿を破する事尤も恐れ有り。

又第四の称名雑行とは念仏申さん人は唱うべき仏菩薩の名あり唱えまじき仏菩薩の名あり、唱うべき仏菩薩の名とは弥陀三尊の名号、唱うまじき仏菩薩の名号とは釈迦・薬師・大日等の諸仏、地蔵・普賢・文殊・日月星、二所と三嶋と熊野と羽黒と天照大神と八幡大菩薩と此等の名を一遍も唱えん人は念仏を十万遍・百万遍申したりとも此の仏菩薩・日月神等の名を唱うる過に依つて無間には・おつとも往生すべからずと云云、我世間を見るに念仏を申す人も此等の諸仏菩薩・諸天善神の名を唱うる故に是れ又師の教に背けり。

第五の讃歎供養雑行とは念仏申さん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養せん外は上に挙ぐる所の仏菩薩・諸天善神に香華のすこしをも供養せん人は念仏の功は貴とけれども此の過に依つて雑行に摂すと是をきらふ、然るに世を見るに社壇に詣でては幣帛を捧げ堂舎に臨みては礼拝を致す是れ又師の教に背けり、汝若し不審ならば選択を見よ其の文明白なり、又善導和尚の観念法門経に云く「酒肉五辛誓つて発願して手に捉らざれ口に喫まざれ若し此の語に違せば即ち身口倶に悪瘡を著けんと願ぜよ」文、此の文の意は念仏申さん男女・尼法師は酒を飲まざれ魚鳥をも食わざれ其の外にら・ひる等の五つのからく・くさき物を食わざれ是を持たざる念仏者は今生には悪瘡身に出で後生には無間に堕すべしと云云、然るに念仏申す男女・尼法師・此の誡をかへりみず恣に酒をのみ魚鳥を食ふ事・剣を飲む譬にあらずや。

爰に愚人の云く誠に是れ此の法門を聞くに念仏の法門実に往生すと雖も其の行儀修行し難し況や彼の憑む所の経論は皆以て権説なり往生す可からざるの条分明なり、但真言を破する事は其の謂れ無し夫れ大日経とは大日覚


王の秘法なり大日如来より系も乱れず善無畏・不空之を伝え弘法大師は日本に両界の曼陀羅を弘め、尊高三十七尊・秘奥なるものなり然るに顕教の極理は尚密教の初門にも及ばず爰を以て後唐院は法華尚及ばず況や自余の教をやと釈し給へり此の事如何が心うべきや。

聖人示して云く予も始は大日に憑を懸けて密宗に志を寄す然れども彼の宗の最底を見るに其の立義も亦謗法なり汝が云う所の高野の大師は嵯峨天皇の御宇の人師なり、然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨を給いて十住心論十巻之を造る、此の書広博なる間要を取つて三巻に之を縮め其の名を秘蔵宝鑰と号す始異生羝羊心より終秘密荘厳心に至るまで十に分別し、第八法華・第九華厳・第十真言と立てて法華は華厳にも劣れば大日経には三重の劣と判じて此くの如きの乗乗は自乗に仏の名を得れども後に望めば戯論と作ると書いて法華経を狂言綺語と云い釈尊をば無明に迷へる仏と下せり、仍て伝法院建立せし弘法の弟子正覚房は法華経は大日経のはきものとりに及ばず・釈迦仏は大日如来の牛飼にも足らずと書けり、汝心を静めて聞け一代五千七千の経教・外典三千余巻にも法華経は戯論三重の劣・華厳経にも劣り釈尊は無明に迷へる仏にて大日如来の牛飼にも足らずと云う慥なる文ありや、設ひさる文有りと云うとも能く能く思案あるべきか。

経教は西天より東土に洎ぼす時・訳者の意楽に随つて経論の文不定なり、さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり我が訳する所の経若し誤りなくば我死して後・身は不浄なれば焼くると云えども舌計り焼けざらんと常に説法し給いしに焼き奉る時・御身は皆骨となるといへども御舌計りは青蓮華の上に光明を放つて日輪を映奪し給いき有り難き事なり、さてこそ殊更・彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給いしか、然れば延暦寺の根本大師・諸宗を責め給いしには法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是なり、涅槃経にも我が仏法は他国へ移らん時誤り多かるべしと説き給へば経文に設ひ法