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日蓮大聖人・池田大作

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聖愚問答抄 下  (10/14) 仏の正法を弘めん者・経教の義を悪く説かんを…
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んと思ふ、聖人示して云く汝言う所実にしかなり我も其の義を存ぜし処に経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く、何故にかやうには説かるるやと存ずるに只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有つて命にも及ぶべしと見えたり、其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり、涅槃経第三に云く「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と、此の文の意は仏の正法を弘めん者・経教の義を悪く説かんを聞き見ながら我もせめず我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば仏法の中の敵なり、若し経文の如くに人をも・はばからず我もせめ国主にも申さん人は仏弟子にして真の僧なりと説かれて候、されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす、汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ是を以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」と、此の文の意は身命をば・ほろぼすとも正法をかくさざれ、其の故は身はかろく法はおもし身をばころすとも法をば弘めよとなり、悲いかな生者必滅の習なれば設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず、今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり、非想の八万歳未だ無常を免れず忉利の一千年も猶退没の風に破らる、況や人間・閻浮の習は露よりも・あやうく芭蕉よりも・もろく泡沫よりもあだなり、水中に宿る月のあるか・なきかの如く草葉にをく露のをくれ・さきだつ身なり、若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ歓喜仏の末の世の覚徳比丘・正法を弘めしに無量の破戒此の行者を怨みて責めしかば有徳国王・正法を守る故に謗法を責めて終に命終して阿閦仏の国に生れて彼の仏の第一の弟子となる、大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙予国王は不退の位に登る、憑しいかな正法の僧を重んじて邪悪


の侶を誡むる人かくの如くの徳あり、されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ちん事疑い無し、南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり、今真言・念仏・禅・律・の謗人をたださず・いつはつて慈悲を現ずる人・此の文の如くなるべし。

爰に愚人意を竊にし言を顕にして云く誠に君を諫めて家を正しくする事・先賢の教へ本文に明白なり外典此くの如し内典是に違うべからず、悪を見ていましめず謗を知つてせめずば経文に背き祖師に違せん其の禁め殊に重し今より信心を至すべし、但し此経を修行し奉らん事叶いがたし若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ、聖人示して云く今汝の道意を見るに鄭重・慇懃なり、所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり、檀王の宝位を退き竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり、夫れ以れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ修行の時刻をば一念随喜と定めたり、凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも只是の五字を説かんためなり、霊山の雲の上・鷲峯の霞の中に釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ只此の要法に在り、天台妙楽の六千張の疏・玉を連ぬるも道邃行満の数軸の釈・金を並ぶるも併しながら此の義趣を出でず、誠に生死を恐れ涅槃を欣い信心を運び渇仰を至さば遷滅無常は昨日の夢・菩提の覚悟は今日のうつつなるべし、只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし。

愚人掌を合せ膝を折つて云く貴命肝に染み教訓意を動ぜり然りと雖も上能兼下の理なれば広きは狭きを括り多は少を兼ぬ、然る処に五字は少く文言は多し首題は狭く八軸は広し如何ぞ功徳斉等ならんや、聖人云く汝愚かなり捨少取多の執・須弥よりも高く軽狭重広の情・溟海よりも深し、今の文の初後は必ず多きが尊く少きが卑しき


にあらざる事・前に示すが如し、爰に又小が大を兼ね、一が多に勝ると云う事之を談ぜん彼の尼拘類樹の実は芥子・三分が一のせいなりされども五百輛の車を隠す徳あり是小が大を含めるにあらずや、又如意宝珠は一あれども万宝を雨して欠処之れ無し是れ又少が多を兼ねたるにあらずや、世間のことわざにも一は万が母といへり此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ強ちに多少を執する事なかれ、汝至つて愚かなり今一の譬を仮らん、夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て籠の内の鳥も出でんとするが如し。

爰に愚人云く首題の功徳・妙法の義趣・今聞く所詳かなり但し此の旨趣正しく経文に是をのせたりや如何、聖人云く其の理詳かならん上は文を尋ぬるに及ばざるか然れども請に随つて之れを示さん法華経第八・陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せん福量るべからず」此の文の意は仏・鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓い給うを讃むるとして汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は三世了達の仏の智慧も尚及びがたしと説かれたり、仏智の及ばぬ事何かあるべきなれども法華の題名受持の功徳ばかりは是を知らずと宣べたり、法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠れり、一部八巻・文文ごとに二十八品・生起かはれども首題の五字は同等なり、譬ば日本の二字の中に六十余州・島二つ入らぬ国やあるべき籠らぬ郡やあるべき、飛鳥とよべば空をかける者と知り走獣といへば地を・はしる者と心うる一切名の大切なる事蓋し以て是くの