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日蓮大聖人・池田大作

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諸経と法華経と難易の事  (1/2) 元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか…
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諸経と法華経と難易の事

                    弘安三年五月 五十九歳御作

問うて云く法華経の第四法師品に云く難信難解と云云いかなる事ぞや、答えて云く此の経は仏説き給いて後二千余年にまかりなり候、月氏に一千二百余年・漢土に二百余年を経て後に日本国に渡りて・すでに七百余年なり、仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但三人なり、所謂月氏には竜樹菩薩の大論に云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、此れは竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給いしなり、漢土には天台智者大師と申せし人読んで云く「已今当説最も為れ難信難解」と云云、日本国には伝教大師読んで云く「已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり随他意の故に此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」等云云、問うて云く其の意如何、答て云く易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり云云、弘法大師並びに日本国東寺の門人をもわく法華経は顕教の内の難信難解にて密教に相対すれば易信易解なり云云、慈覚智証並びに門家思うよう法華経と大日経は倶に難信難解なり但し大日経と法華経と相対せば法華経は難信難解・大日経は最も為れ難信難解なり云云、此の二義は日本一同なり、日蓮読んで云く外道の経は易信易解・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解・大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり・般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。

問うて云く此の義を知つて何の詮か有る答えて云く生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか随他意とは真言宗・華厳宗等は随他意の易信易解なり仏九界の衆生の意楽に随つて説く所の経経を随他意という譬えば賢父が愚子に随うが如し、仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という、譬へば聖父が愚子


を随えたるが如きなり、日蓮此の義に付て大日経・華厳経・涅槃経等を勘え見候に皆随他意の経経なり、問うて云く其の随他意の証拠如何、答えて云く勝鬘経に云く「非法を聞くこと無き衆生には人天の善根を以て之を成熟す声聞を求むる者には声聞乗を授け縁覚を求むる者には縁覚乗を授け大乗を求むる者には授くるに大乗を以てす」と云云、易信易解の心是なり、華厳・大日・般若・涅槃等又是くの如し「爾の時に世尊・薬王菩薩に因せて八万の大士に告げたまわく薬王汝是の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者・辟支仏を求むる者・仏道を求むる者を見るや、是くの如き等類咸く仏前に於て妙法華経の一偈一句を聞いて一念も随喜する者には我皆記を与え授く当に阿○菩提を得べし」文、諸経の如くんば人は五戒・天は十善・梵は慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘の二百五十・比丘尼の五百戒・声聞の四諦・縁覚の十二因縁・菩薩の六度・譬へば水の器の方円に随い象の敵に随つて力を出すがごとし、法華経は爾らず八部・四衆皆一同に法華経を演説す、譬へば定木の曲りを削り師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし。

此の明鏡を以て一切経を見聞するに大日の三部・浄土の三部等隠れ無し、而るを・いかにやしけん弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に此の義すでに隠没して日本国四百余年なり、珠をもつて石にかへ栴檀を凡木にうれり、仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり、幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり、委細に旨又又申す可く候、恐恐。

  五月廿六日                     日蓮花押

   富木殿御返事


富城入道殿御返事

                    弘安四年十月 六十歳御作

                   与 富木胤継  於身延

今月十四日の御札同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比到来せり、其の外度度の貴札を賜うと雖も老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候条其の恐れ少からず候、何よりも去ぬる後の七月御状の内に云く鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には思円上人・又云く理豈然らんや等云云、此の事別して此の一門の大事なり総じて日本国の凶事なり仍つて病を忍んで一端是れを申し候はん、是偏に日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん事兼て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科今に始めざる事なり然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん、去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁