Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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四信五品抄  (2/5) 信の一字を詮と為す
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五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり、天台妙楽の二の聖賢此の二処の位を定むるに三の釈有り所謂或は相似・十信・鉄輪の位・或は観行五品の初品の位・未断見思或は名字即の位なり、止観に其の不定を会して云く「仏意知り難し機に赴きて異説す此を借つて開解せば何ぞ労しく苦に諍わん」云云等。

予が意に云く、三釈の中名字即は経文に叶うか滅後の五品の初の一品を説いて云く「而も毀呰せずして随喜の心を起す」と若し此の文相似の五品に渡らば而不毀呰の言は便ならざるか、就中寿量品の失心不失心等は皆名字即なり、涅槃経に「若信若不信乃至熈連」とあり之を勘えよ、又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し解の一字は後に奪わるる故なり、若し爾らば無解有信は四信の初位に当る経に第二信を説いて云く「略解言趣」と云云、記の九に云く「唯初信を除く初は解無きが故に」随つて次下の随喜品に至つて上の初随喜を重ねて之を分明にす五十人是皆展転劣なり、第五十人に至つて二の釈有り一には謂く第五十人は初随喜の内なり二には謂く第五十人は初随喜の外なりと云うは名字即なり、教弥よ実なれば位弥よ下れりと云う釈は此の意なり、四味三教よりも円教は機を摂し爾前の円教よりも法華経は機を摂し迹門よりも本門は機を尽すなり教弥実位弥下の六字心を留めて案ず可し。

問う末法に入つて初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて曰く此の義大事たる故に経文を勘え出して貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり、天台云く「若し相似の益は隔生すれども忘れず名字観行の益は隔生すれば即ち忘る或は忘れざるも有り忘るる者も若し知識に値えば宿善還つて生ず若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教


の善知識に違背して心・無畏・不空等の悪友に遷れり、末代の学者・慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本心を失い弥陀の権門に入る退大取小の者なり、過去を以て之を推するに未来無量劫を経て三悪道に処せん若し悪友に値えば即ち本心を失うとは是なり。

問うて曰く其の証如何答えて曰く止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり円教の位下きは真実の説なればなり」弘決に云く「前教と云うより下は正く権実を判ず教弥よ実なれば位弥よ下く教弥よ権なれば位弥よ高き故に」と、又記の九に云く「位を判ずることをいわば観境弥よ深く実位弥よ下きを顕す」と云云、他宗は且らく之を置く天台一門の学者等何ぞ実位弥下の釈を閣いて慧心僧都の筆を用ゆるや、畏・智・空と覚・証との事は追つて之を習え大事なり大事なり一閻浮提第一の大事なり心有らん人は聞いて後に我を外め。

問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり、疑つて云く此の義未だ見聞せず心を驚かし耳を迷わす明かに証文を引て請う苦に之を示せ、答えて云く経に云く「須く我が為に復た塔寺を起て及び僧坊を作り四事を以て衆僧を供養することをもちいざれ」此の経文明かに初心の行者に檀戒等の五度を制止する文なり、疑つて云く汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか、答えて曰く初を挙げて後を略す、問て曰く何を以て之を知らん、答えて曰く次下の第四品の経文に云く「況や復人有つて能く是の経を持ちて兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云、経文分明に初二三品の人には檀戒等の五度を制止し第四品に至つて始めて之を許す後に許すを以て知んぬ初に制する事を、問うて曰く経文一往相似たり将た又疏釈有りや、答えて曰く汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か将た又漢土日本の人師の書か本を捨て末を尋ね体を離れて影を求め源を忘れて流を貴ぶ分明なる経文を閣いて論釈を請い尋ぬ本経に相違する末釈有らば本経を捨てて末


釈に付く可きか然りと雖も好みに随て之を示さん、文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る直ちに専ら此の経を持つ即ち上供養なり事を廃して理を存するは所益弘多なり」と、此の釈に縁と云うは五度なり初心の者兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり、譬えば小船に財を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し、直専持此経と云うは一経に亘るに非ず専ら題目を持つて余文を雑えず尚一経の読誦だも許さず何に況や五度をや、「廃事存理」と云うは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云、所益弘多とは初心の者諸行と題目と並び行ずれば所益全く失うと云云。

文句に云く「問う若爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや、答う此は初品を明かす後を以て難を作すべからず」等云云、当世の学者此の釈を見ずして末代の愚人を以て南岳天台の二聖に同ず誤りの中の誤りなり、妙楽重ねて之を明して云く「問う若し爾らば若し事の塔及び色身の骨を須いず亦須く事の戒を持つべからざるべし乃至事の僧を供養することを須いざるや」等云云、伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず鑒真の弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」云云。

問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや、答えて曰く日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して一も残さず月氏の両字に豈七十ケ国無からんや、妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」又云く「略して界如を挙ぐるに具さに三千を摂す、文殊師利菩薩・阿難尊者・三会八年の間の仏語之を挙げて妙法蓮華経と題し次下に領解して云く「如是我聞」と云云。

問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん水心無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らん