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日蓮大聖人・池田大作

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船守弥三郎許御書  (1/2) たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食…
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船守弥三郎許御書

                    弘長元年六月 四十歳御作

わざと使を以てちまきさけほしひさんせうかみしなじな給候い畢んぬ、又つかひ申され候は御かくさせ給へと申し上げ候へと日蓮心得申べく候、日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに・いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに・船よりあがりくるしみ候いきところに・ねんごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか、たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや、かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ、ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか、法華経第四に云く「及清信士女供養於法師」と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし。

さきにまいらせし文につぶさにかきて候し間・今はくはしからず、ことに当地頭の病悩について祈せい申すべきよし仰せ候し間・案にあつかひて候、然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば法華経へそせうとこそをもひ候へ、此の時は十羅刹女もいかでか力をあわせ給はざるべきと思い候いて・法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並に天照・八幡・大小の神祇等に申して候、定めて評議ありてぞ・しるしをばあらはし給はん、よも日蓮をば捨てさせ給


はじ、いたきとかゆきとの如くあてがわせ給はんと・をもひ候いしについに病悩なをり・海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし、我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。

寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。

雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王の所へにげ入りし鳩は毘首羯摩天ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり、木像即金色なり金色即木像なり、あぬるだが金はうさぎとなり死人となる、釈摩男がたなごころにはいさごも金となる、此等は思議すべからず、凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり。

しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか、伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ、人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ・あなかしこ・あなかしこ、南無妙法蓮華経。

  弘長元年六月二十七日                日蓮花押

   船守弥三郎殿許へ之を遣わす


同一鹹味御書

夫れ味に六種あり・一には淡・二には鹹・三には辛・四には酸・五には甘・六には苦なり、百味の餚膳を調ふといへども一つの鹹の味なければ大王の膳とならず、山海の珍物も鹹なければ気味なし、大海に八の不思議あり、一には漸漸に転深し・二には深くして底を得難し三には同じ一鹹の味なり・四には潮限りを過ぎず・五には種種の宝蔵有り・六には大身の衆生中に在つて居住す・七には死屍を宿めず・八には万流大雨之を収めて不増不減なり、漸漸に転深しとは法華経は凡夫無解より聖人有解に至るまで皆仏道を成ずるに譬うるなり、深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり、同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ、諸河の水・大海に入つて鹹となるは諸教の機類・法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ、潮限りを過ぎずとは妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ、種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ、大身の衆生所居の住処とは仏菩薩・大智慧あるが故に大身衆生と名く大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲・おのづから法華経より生ずるが故なり、死屍を宿めずとは永く謗法一闡提を離るるが故なり、不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり、蔓草漬たる桶缾の中の鹹は大海の鹹に随つて満干ぬ、禁獄を被る法華の持者は桶缾の中の鹹の如く・火宅を出で給へる釈迦如来は大海の鹹の如し、法華の持者を禁むるは釈迦如来を禁むるなり、梵釈・四天も如何驚き給わざらん、十羅刹女の頭破七分の誓ひ此の時に非ずんば何の時か果し給ふべき、頻婆娑羅王を禁獄せし阿闍世早く現身に大悪瘡を感得しき、法華の持者を禁獄する人・何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。                       日蓮花押