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日蓮大聖人・池田大作

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善無畏三蔵抄  (8/10) 建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十…
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三蔵・法華経と大日経と大事とすべしと深理をば同ぜさせ給いしかども印と真言とは法華経は大日経に劣りけるとおぼせし僻見計りなり、其の已後の真言師等は大事の理をも法華経は劣れりと思へり、印真言は又申すに及ばず謗法の罪・遙にかさみたり、閻魔の責にて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず直に阿鼻の炎をや招くらん、大日経には本・一念三千の深理なし此の理は法華経に限るべし、善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給いしを盗み取つて大日経に入れ法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり、譬えば人の下人の六根は主の物なるべし而るを我が財と思ふ故に多くの失出で来る、此の譬を以て諸経を解るべし劣る経に説く法門は勝れたる経の得分と成るべきなり。

而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ、殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に禅宗・念仏宗の学者・蜂の如く起り雲の如く集る、是をつむる事・一言二言には過ぎず結句は天台・真言等の学者・自宗の廃立を習ひ失いて我が心と他宗に同じ在家の信をなせる事なれば彼の邪見の宗を扶けんが為に天台・真言は念仏宗・禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり、此れは日蓮を破する様なれども我と天台・真言等を失ふ者なるべし能く能く恥ずべき事なり。

此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、


然れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや、中中・山人・海人なんどが東西をしらず一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし、当世の道心者が後世を願ふとも法華経・釈迦仏をば打ち捨て阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず、一向悪人はいまだ仏法に帰せず釈迦仏を捨て奉る失も見えず縁有つて信ずる辺もや有らんずらん、善導・法然・並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人人は多生曠劫をふるとも此の邪見を翻へして釈迦仏・法華経に帰すべしとは見えず、されば雙林最後の涅槃経に十悪・五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れとこまごまと申して候いしかば此の人もこころえずげに思いておはしき、傍座の人人もこころえずげに・をもはれしかども其の後承りしに法華経を持たるるの由承りしかば此の人邪


見を翻し給ふか善人に成り給いぬと悦び思ひ候処に又此の釈迦仏を造らせ給う事申す計りなし、当座には強なる様に有りしかども法華経の文のままに説き候いしかばかうおれさせ給へり、忠言耳に逆らい良薬口に苦しと申す事は是なり。

今既に日蓮・師の恩を報ず定めて仏神・納受し給はんか、各各此の由を道善房に申し聞かせ給ふべし、仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり、当世・学匠等の法門は輭語・実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗・真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし、例せば此の道善御房の法華経を迎へ釈迦仏を造らせ給う事は日蓮が強言より起る、日本国の一切衆生も亦復是くの如し、当世・此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る、譬えば栴檀は伊蘭より生じ蓮華は泥より出でたり而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは糞犬が師子王をほへ癡猿が帝釈を笑ふに似たり。

  文永七年                      日蓮花押

   義浄房浄顕房