Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

御講聞書  (10/41) 終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし…
816

心は十界皆成の旨を明せり、然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり、地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり、自は十界を指したり、恣ままに証すと云う事なり、権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり、今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり、所謂南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり云云。

一我始坐道場観樹亦経行の事

仰に云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり、観樹の樹と云うは十二因縁の事なり、所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり、十二因縁は法界の異名なり又法華経の異名なり、其の故は樹木は枝葉華菓あり是れ即ち生住異滅の四相なり、大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり、所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又此の如くなり、法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。

一今我喜無畏の事

仰に云く此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば喜びておそれなしと観じ給えり、其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり、さて今は恐るべき事なく時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき、今は即ち此の恐れ無く既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云。

一我聞是法音疑網皆已除の事

仰に云く法音とは南無妙法蓮華経なり、疑網とは最後品の無明を云うなり、此の経を持ち奉れば悉く除くと説かれたり、此の文は舎利弗が三重の無明・一時倶尽する事を領解せり、今日本国の一切衆生・法華経の法音を聞くと云えども未だ能く信ぜず豈疑網皆已に除かんや、除かざれば入阿鼻獄は疑


無きなり、疑の字は元品の無明の事なり此の疑を断つを信とは云うなり、釈に云く無疑曰信と云えり身子は此の疑無き故に華光仏と成れり、今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり、疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり、疑は心法にあり・網は色法にあり、此の経を持ち奉り信ずれば色心の二法共に悉く除くと云う事なり、此の皆已の已の字は身子尊者・広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり、身子・妙法実相の理を聴聞して心懐大歓喜せしなり、所詮舎利弗尊者程の智者・法華経へ来つて華光仏となり、疑網を断除せり、何に況んや末法当時の権人謗法の人人此の経に値わずんば成仏あらんや云云。

一以本願故説三乗法の事

仰に云く此の経文は身子尊者・成道の国・離垢世界にて三乗の法は悪世には非ず、然りと雖も身子本願の故に説くと云えり、其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉じられて、其の時・菩薩の行を退転したり、此の菩薩の行を百劫立てけるに、六十劫なして今四十劫たらざりき、此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり、上品浄土・不須開漸なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以本願故の故にて三乗の法を説くなり、此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり、此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり、重重の義勢之れ在り輙く心得難きの事なり、或は欲怖地前の意、或は権者退云云、所詮は六住退とは六根・六境に菩薩の行を取られたりと云う事なり、之を以て之を思うに末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし、所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障礙せらるる・豈眼を抉り取らるるに非ずや、所詮彼の乞眼の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に乞いて蹈みつぶして捨てたり、全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり、只だ退転せしめん為な


り、身子は一念菩薩の行を立ててかかる事に値えり、向後は菩薩の行をば立つ可からず二乗の行を立つ可しと云つて後悔せし故に成仏の日・説三乗法するなり、所詮乞眼婆羅門の責を堪えざるが故なり、法華経の行者・三類の強敵を堪忍して妙法の信心を捨つ可からざるなり信心を以て眼とせり云云。

一有大長者の事

仰に云く此の長者に於いて天台大師・三の長者を釈し給えり、一には世間の長者・二には出世の長者・三には観心の長者是なり、此の中に出世観心の長者を以て、此の品の長者とせり、長者とは釈迦如来の事なり、観心の長者の時は一切衆生なり、所詮法華経の行者は男女共に長者なり、文句の五に委しく釈せり、末法当今の長者と申すは日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり、されば三の長者を釈する時、文句五に云く、二に位号を標するに三と為す、一は世間の長者・二は出世の長者・三は観心の長者なり、世に十徳を備う、一には姓貴・二には位高・三には大富・四には威猛・五には智深・六には年耆・七には行浄・八には礼備・九には上歎・十には下帰なり云云、又云く、出世の長者は、仏は三世の真如実際の中より生ず、功成り、道著われて、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具に満せり、十力雄猛にして、魔を降し外を制す、一心の三智通達せずと云うこと無し、早く正覚を成じて、久遠なること斯くの如し、三業智に随つて、運動して失無し、仏の威儀を具して、心大なること海の如し、十方の種覚・共に称誉する所なり、七種の方便・而も来つて依止す、是を出世の仏大長者と名く、三に観心とは、観心の智実相より出で生じて仏家にあり、種性真正なり、三惑起らず、未だ真を発さずと雖も是れ如来の衣を着れば、寂滅忍と称す、三諦に一切の功徳を含蔵す、正観の慧・愛見を降伏す、中道双べ照して権実並に明なり、久く善根を積みて・能く此の観を修す、此の観七方便の上に出でたり、此の観・心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、是れ深信解の相諸仏皆歓喜して持法の者を歎美したもう、天竜・四部・恭敬供養す、下の文に云く、仏子是の地に住すれば、即ち