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日蓮大聖人・池田大作

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松野殿後家尼御前御返事  (1/4) 然るにかかる経文かたがた符合し候畢んぬ未来…
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文かたがた符合し候畢んぬ未来に仏に成り候はん事疑いなく覚え候、委細は見参の時申すべし。

  建治四年戊寅二月十三日               日蓮花押

   松野殿御返事

松野殿御返事

日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや。

干飯一斗・古酒一筒・ちまき・あうざし・たかんな方方の物送り給いて候草にさける花・木の皮を香として仏に奉る人・霊鷲山へ参らざるはなし、況や民のほねをくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけを仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや。

  五月一日                      日蓮花押

   妙法尼御返事

松野殿後家尼御前御返事

法華経第五の巻安楽行品に云く文殊師利此法華経は無量の国の中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず云云、此の文の心は我等衆生の三界六道に輪回せし事は或は天に生れ或は人に生れ或は地獄に生れ或は餓鬼に生れ畜生に生れ無量の国に生をうけて無辺の苦しみをうけて・たのしみにあひしかども一度も法華経の国には生ぜず、


たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず、となふる事はゆめにもなし人の申すをも聞かず、仏のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり、心は大海の中に八万由旬の底に亀と申す大魚あり、手足もなくひれもなし・腹のあつき事はくろがねのやけるがごとし、せなかのこうのさむき事は雪山ににたり、此の魚の昼夜朝暮のねがひ時時剋剋の口ずさみには・腹をひやしこうをあたためんと思ふ、赤栴檀と申す木をば聖木と名つく人の中の聖人なり、余の一切の木をば凡木と申す愚人の如し、此の栴檀の木は此の魚の腹をひやす木なり、あはれ此の木にのぼりて腹をば穴に入れてひやし・こうをば天の日にあてあたためばやと申すなり、自然のことはりとして千年に一度出る亀なり、しかれども此の木に値事かたし、大海は広し亀はちいさし浮木はまれなり、たとひよのうききにはあへども栴檀にはあはず、あへども亀の腹をえりはめたる様に・がい分に相応したる浮木の穴にあひがたし我が身をち入りなばこうをも・あたためがたし誰か又とりあぐべき、又穴せばくして腹を穴に入れえずんば波にあらひ・をとされて大海にしづみなむ、たとひ不思議として栴檀の浮木の穴にたまたま行きあへども我一眼のひがめる故に浮木西にながるれば東と見る故にいそいでのらんと思いておよげば弥弥とをざかる、東に流るを西と見る南北も又此くの如し云云、浮木には・とをざかれども近づく事はなし、是の如く無量無辺劫にも一眼の亀の浮木の穴にあひがたき事を仏説き給へり、此の喩をとりて法華経にあひがたきに譬ふ、設ひあへどもとなへがたき題目の妙法の穴にあひがたき事を心うべきなり、大海をば生死の苦海なり亀をば我等衆生にたとへたり、手足のなきをば善根の我等が身にそなはらざるにたとへ、腹のあつきをば我等が瞋恚の八熱地獄にたとへ・背のこうのさむきをば貪欲の八寒地獄にたとへ・千年大海の底にあるをば我等が三悪道に堕ちて浮びがたきにたとへ、千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、余の松木ひの木の浮木には・あひやすく栴檀にはあひがたし、一切経には値いやすく法華


経にはあひがたきに譬へたり、たとひ栴檀には値うとも相応したる穴にあひがたきに喩うるなり、設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう、東を西と見・北を南と見る事をば我れ等衆生かしこがほに智慧有る由をして勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ、得益なき法をば得益あると見る・機にかなはざる法をば機に・かなう法と云う、真言は勝れ法華経は劣り真言は機にかなひ法華経は機に叶はずと見る是なり。

されば思いよらせ給へ仏・月氏国に出でさせ給いて一代聖教を説かせ給いしに四十三年と申せしに始めて法華経を説かせ給ふ、八箇年が程・一切の御弟子皆如意宝珠のごとくなる法華経を持ち候き、然れども日本国と天竺とは二十万里の山海をへだてて候しかば法華経の名字をだに聞くことなかりき、釈尊御入滅ならせ給いて一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ、いまだ日本国へは渡らず、仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門の御時・百済国より始めて仏法渡る、又上宮太子と申せし人唐土より始めて仏法渡させ給いて其れより以来今に七百余年の間・一切経並に法華経は・ひろまらせ給いて、上一人より下万人に至るまで心あらむ人は法華経を一部或は一巻或は一品持ちて或は父母の孝養とす、されば我等も法華経を持つと思う、しかれども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず信じたるに似て信ぜざるが如し、譬えば一眼の亀のあひがたき栴檀の聖木には・あいたれども・いまだ亀の腹を穴に入れざるが如し、入れざればよしなし須臾に大海にしづみなん、我が朝七百余年の間此の法華経弘まらせ給いて或は読む人或は説く人或は供養せる人或は持つ人稲麻竹葦よりも多し、然れどもいまだ阿弥陀の名号を唱うるが如く南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし、一切の経一切の仏の名号を唱うるは凡木にあうがごとし、未だ栴檀ならざれば腹をひやさず・日天ならざれば甲をもあたためず、但目をこやし心を悦ばしめて実なし華さいて菓なく言のみ有りてしわざなし。