Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

さじき女房御返事 
1231

桟敷女房御返事

                     建治元年五月 五十四歳御作

女人は水のごとし・うつは物にしたがう・女人は矢のごとし・弓につがはさる・女人はふねのごとし・かぢのまかするによるべし、しかるに女人はをとこ・ぬす人なれば女人ぬす人となる・をとこ王なれば女人きさきとなる・をとこ善人なれば女人・仏になる、今生のみならず後生も・をとこによるなり、しかるに兵衛のさゑもんどのは法華経の行者なり、たとひ・いかなる事ありとも・をとこのめなれば法華経の女人とこそ仏は・しろしめされて候らんに・又我とこころををこして法華経の御ために御かたびらをくりたびて候。

法華経の行者に二人あり・聖人は皮をはいで文字をうつす・凡夫は・ただ・ひとつきて候かたびら・などを法華経の行者に供養すれば皮をはぐうちに仏をさめさせ給うなり、此の人のかたびらは法華経の六万九千三百八十四の文字の仏にまいらせさせ給いぬれば・六万九千三百八十四のかたびらなり、又六万九千三百八十四の仏・一一・六万九千三百八十四の文字なれば・此のかたびらも又かくのごとし、たとへばはるの野の千里ばかりに・くさのみちて候はんに・すこしの豆ばかりの火を・くさ・ひとつにはなちたれば一時に無量無辺の火となる、此のかたびらも又かくのごとし、ひとつのかたびら・なれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。

この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん、まして・わが・いとをしと・をもふ・をとこは申すに及ばずと、おぼしめすべし、おぼしめすべし。

  五月二十五日                    日蓮花押

   さじき女房御返事


棧敷女房御返事

                    建治四年二月 五十七歳御作

白かたびら布一給い畢んぬ、法華経を供養申しまいらせ候に・十種くやうと申す十のやう候、其のなかに衣服と申し候は・なににても候へ、僧のき候物をくやうし候、其の因縁を・とかれて候には過去に十万億の仏を・くやうせる人・法華経に近づきまいらせ候とこそとかれて候へ、あらあら申すべく候へども、身にいたはる事候間・こまやかならず候、恐恐謹言。

  二月十七日                     日蓮花押

   さじきの女房御返事

善無畏抄

                    建治元年 五十四歳御作

善無畏三蔵は月氏・烏萇奈国の仏種王の太子なり、七歳にして位に即き給う十三にして国を兄に譲り出家遁世し五天竺を修行して五乗の道を極め三学を兼ね給いき、達磨掬多と申す聖人に値い奉りて真言の諸印契一時に頓受し即日に御灌頂なし人天の師と定まり給いき、雞足山に入りては迦葉尊者の髪を剃り王城に於て雨を祈り給いしかば観音日輪の中より出て水瓶を以て水を灌ぎ、北天竺の金粟王の塔の下にして仏法を祈請せしかば文殊師利菩薩大日経の胎蔵の曼荼羅を現して授け給う、其の後開元四年丙辰に漢土に渡る玄宗皇帝之を尊むこと日月の如し、又大旱魃あり皇帝勅宣を下す、三蔵一鉢に水を入れ暫く加持し給いしに水の中に指許りの物有り変じて竜


と成る其の色赤色なり、白気立ち昇り鉢より竜出でて虚空に昇り忽に雨を降す、此の如くいみじき人なれども一時に頓死して有りき、蘇生りて語つて云く我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け鉄の杖を以て散散にさいなみ閻魔宮に到りにき、八万聖教一字一句も覚えず唯法華経の題名許り忘れざりき題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ息続いて高声に唱えて云く今此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子・而今此処多諸患難・唯我一人能為救護等云云、七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき、今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき、今日蓮不審して云く善無畏三蔵は先生に十善の戒力あり五百の仏陀に仕えたり、今生には捨て難き王位をつばきを捨てるが如く之を捨て幼少十三にして出家し給い、月支国を廻りて諸宗を習い極め天の感を蒙り化道の心深くして震旦国に渡りて真言の大法を弘めたり、一印一真言を結び誦すれば過去現在の無量の罪滅しぬらん何の科に依りて閻魔の責をば蒙り給いけるやらん不審極り無し、善無畏三蔵真言の力を以て閻魔の責を脱れずば天竺・震旦・日本等の諸国の真言師・地獄の苦を脱る可きや、委細に此の事を勘えたるに此の三蔵は世間の軽罪は身に御せず諸宗並びに真言の力にて滅しぬらん、此の責は別の故無し法華経誹謗の罪なり、大日経の義釈を見るに此の経は是れ法王の秘宝妄りに卑賤の人に示さず、釈迦出世の四十余年に舎利弗慇懃の三請に因つて方に為に略して妙法蓮華の義を説くが如し、今此の本地の身又是れ妙法蓮華最深秘処なり、故に寿量品に云く「常に霊鷲山及び余の諸の住処に在り、乃至我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽くと見る」と、即ち此の宗瑜伽の意なるのみ、又「補処の菩薩の慇懃三請に因つて方に為に之を説く」等云云、此の釈の心は大日経に本迹二門・開三顕一・開近顕遠の法門有り、法華経の本迹二門の如し、此の法門は法華経に同じけれども此の大日経に印と真言と相加わりて三密相応せり、法華経は但意密許りにて身口の二密闕けたれば法華経をば略説と云い大日経をば広説と申す可きなりと書かれたり、此の法門第一の悞・謗法の根本なり、此の文に二つの悞り有り、又義釈に云