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日蓮大聖人・池田大作

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土木殿御返事 
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土木殿御返事

                    文永十年七月 五十二歳御作

鵞目二貫給候い畢んぬ、太田殿と其れと二人の御心喜び候、伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ、御勘気ゆりぬ事・御歎き候べからず候、当世・日本国子細之れ有る可き由之を存ず定めて勘文の如く候べきか、設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか、仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか、文理無くんば大慢豈之に過んや、章安大師天台を褒めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、日蓮又復是くの如し竜樹天親等尚其の類に非ず等云云、此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ、故に天台大師日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、伝教大師当世を恋いて云く「末法太はだ近きに有り」等云云、幸いなるかな我が身「数数見擯出」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな、諸人の御返事に之を申す故に委細、恐恐。

  七月六日                      日蓮花押

   土木殿御返事


富木殿御書

                    文永十一年 五十三歳御作

けかち申すばかりなし米一合もうらずがししぬべし、此の御房たちも・みなかへして但一人候べし、このよしを御房たちにもかたりさせ給へ。十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどまるみならば・けさんに入り候べし、恐恐謹言。

  十七日                       日蓮在御判

   ときどの

土木殿御返事

仕候なり

褒美に非ず実に器量者なり、来年正月大進阿闍梨房と越中と之を遣わし去るべく候、白小袖一つ給い候い畢んぬ、今年日本国一同に飢渇の上佐渡の国には七月七日已下天より忽ちに石灰虫と申す虫と雨等にて一時に稲穀損し其の上疫病処処に遍満し方方死難脱れ難きか、事事紙上に尽し難く候、恐恐謹言。

  十一月三日                     日蓮在御判

   土木殿御返事


法華行者逢難事

                    文永十一年正月 五十三歳御作

                    与 富木常忍

   河野辺殿等中

   大和阿闍梨御房御中

   一切我弟子等中

   三郎佐衛門尉殿

謹上               日蓮

   富木殿

追て申す、竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず此に口伝有り、天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう、所詮一には仏・授与したまわざるが故に、二には時機未熟の故なり、今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ、西王母の先相には青鳥・客人の来相には鳱鵲是なり、各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ。

富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ。

法華経の第四に云く「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、同第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、涅槃経の三十八に云く「爾の時に外道に無量の人有り○心瞋恚を生ず」等云云、又云く