Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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法華初心成仏抄  (14/14) 梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、…
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無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳いくら程とも計りがたく・めでたき功徳なり神妙なりと仰せられたる文なり、是れ我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云う文なり。

凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり、されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。

                          日蓮在御判


三世諸仏総勘文教相廃立

                 弘安二年十月 五十八歳御作

                           日蓮之を撰す

夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊


等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。

故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祗・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祗・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と