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日蓮大聖人・池田大作

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四条金吾許御文  (3/3) されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼ…
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釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ又誕生の日をば薬師になしぬ、八幡大菩薩をば崇るやうなれども又本地を阿弥陀仏になしぬ、本地垂迹を捨つる上に此の事を申す人をば・かたきとする故に力及ばせ給はずして此の神は天にのぼり給いぬるか、但し月は影を水にうかぶる濁れる水には栖ことなし、木の上・草の葉なれども澄める露には移る事なれば・かならず国主ならずとも正直の人のかうべには・やどり給うなるべし。

然れば百王の頂に・やどらんと誓い給いしかども・人王八十一代・安徳天皇・二代隠岐の法皇・三代阿波・四代佐渡五代東一条等の五人の国王の頂には・すみ給はず、諂曲の人の頂なる故なり、頼朝と義時とは臣下なれども其の頂には・やどり給ふ正直なる故か、此れを以て思うに法華経の人人は正直の法につき給ふ故に釈迦仏・猶是をまほり給ふ、況や垂迹の八幡大菩薩争か是をまほり給はざるべき、浄き水なれども濁りぬれば月やどる事なし、糞水なれども・すめば影を惜み給はず、濁水は清けれども月やどらず・糞水は・きたなけれども・すめば影を・をしまず、濁水は智者・学匠の持戒なるが法華経に背くが如し、糞水は愚人の無戒なるが貪欲ふかく瞋恚・強盛なれども法華経計りを無二無三に信じまいらせて有るが如し、涅槃経と申す経には法華経の得道の者を列ねて候に蜣蜋蝮蠍と申して糞虫を挙げさせ給ふ、竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給うに蜫虫と申して糞虫を仏になす等云云、又涅槃経に法華経にして仏になるまじき人をあげられて候には「一闡提の人の阿羅漢の如く、大菩薩の如き」等云云、此等は濁水は浄けれども月の影を移す事なしと見えて候、されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては争か其の影をばをしみ給うべき、我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし、八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり、疑い給う事なかれ・疑い給う事なかれ、恐恐謹言。

  十二月十六日                    日蓮花押

   四条金吾殿女房御返事


四条金吾殿御返事

                    弘安五年正月 六十一歳御作

満月のごとくなるもちゐ二十・かんろのごとくなる・せいす一つつ・給候い畢んぬ、春のはじめの御悦びは月のみつるがごとく・しをのさすがごとく・草のかこむが如く・雨のふるが如しと思し食すべし。

抑八日は各各の御父・釈迦仏の生れさせ給い候し日なり、彼の日に三十二のふしぎあり・一には一切の草木に花さき・みなる・二には大地より一切の宝わきいづ・三には一切のでんぱたに雨ふらずして水わきいづ・四には夜変じてひるの如し・五には三千世界に歎きのこゑなし、是くの如く吉瑞の相のみにて候し、是より已来今にいたるまで二千二百三十余年が間・吉事には八日をつかひ給い候なり。

然るに日本国・皆釈迦仏を捨てさせ給いて候に・いかなる過去の善根にてや・法華経と釈迦仏とを御信心ありて・各各あつまらせ給いて八日をくやう申させ給うのみならず・山中の日蓮に華かうを・をくらせ候やらん、たうとし・たうとし、恐恐。

  正月七日                      日蓮花押

   人人御返事


月水御書

                    文永元年四月 四十三歳御作

                    与 大学三郎妻

伝え承はる御消息の状に云く法華経を日ごとに一品づつ二十八日が間に一部をよみまいらせ候しが当時は薬王品の一品を毎日の所作にし候、ただ・もとの様に一品づつを・よみまいらせ候べきやらんと云云、法華経は一日の所作に一部八巻・二十八品・或は一巻・或は一品・一偈・一句・一字・或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ・或は又一期の間に只一度となへ・或は又一期の間にただ一遍唱うるを聞いて随喜し・或は又随喜する声を聞いて随喜し・是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり随喜の心の弱き事・二三歳の幼穉の者のはかなきが如く・牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智慧かしこく・舎利弗・目連・文殊弥勒の如くなる人の諸経を胸の内にうかべて御坐まさん人人の御功徳よりも勝れたる事・百千万億倍なるべきよし・経文並に天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り、されば経文には「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説かれて仏の御智慧すら此の人の功徳をば・しろしめさず、仏の智慧のありがたさは此の三千大千世界に七日・若しは二七日なんど・ふる雨の数をだにも・しろしめして御坐候なるが只法華経の一字を唱えたる人の功徳をのみ知しめさずと見えたり、何に況や我等逆罪の凡夫の此の功徳をしり候いなんや、然りと云えども如来滅後二千二百余年に及んで五濁さかりになりて年久し事にふれて善なる事ありがたし、設ひ善を作人も一の善に十の悪を造り重ねて結句は小善につけて大悪を造り心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり、然るに如来の世に出でさせ給いて候し国よりしては二十万里の山海をへだてて東によれる日域辺土の小嶋にうまれ・五障の雲厚うして三従の・きづなに・つながれ給へる女人なんどの御身として法華経を御信用候は・ありがたしなんど・