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日蓮大聖人・池田大作

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持妙法華問答抄  (6/7) されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて…
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るる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむなり、爰に知んぬ当世の人は詞と心と総てあはず孝経を以て其の親を打つが如し豈冥の照覧恥かしからざらんや地獄の苦み恐るべし恐るべし慎むべし慎むべし、上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり、下根に望めても憍慢ならざれ上根も・もるる事あり心をいたさざるが故に凡そ其の里ゆかしけれども道たえ縁なきには通ふ心もをろそかに其の人恋しけれども憑めず契らぬには待つ思もなをざりなるやうに彼の月卿雲閣に勝れたる霊山浄土の行きやすきにも未だゆかず我即是父の柔輭の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず、是れ誠に袂をくだし胸をこがす歎ならざらんや、暮行空の雲の色・有明方の月の光までも心をもよほす思なり、事にふれをりに付けても後世を心にかけ花の春・雪の朝も是を思ひ風さはぎ村雲まよふ夕にも忘るる隙なかれ、出ずる息は入る息をまたず何なる時節ありてか毎自作是念の悲願を忘れ何なる月日ありてか無一不成仏の御経を持たざらん、昨日が今日になり去年の今年となる事も是れ期する処の余命にはあらざるをや、総て過ぎにし方を・かぞへて年の積るをば知るといへども今行末にをいて一日片時も誰か命の数に入るべき、臨終已に今にありとは知りながら我慢偏執・名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は志の程・無下にかひなし、さこそは皆成仏道の御法とは云いながら此の人争でか仏道に・ものうからざるべき、色なき人の袖には・そぞろに月のやどる事かは、又命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり、若し是れ二念三念を期すと云はば平等大慧の本誓・頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず、流布の時は末世・法滅に及び機は五逆・謗法をも納めたり、故に頓証菩提の心におきてられて狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ、生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり、只先世の業因に任せて営むべし世間の無常をさとらん事は眼に遮り耳にみてり、雲とやなり雨とやなりけん昔の人は只名をのみき


く、露とや消え煙とや登りけん今の友も又みえず、我れいつまでか三笠の雲と思ふべき春の花の風に随ひ秋の紅葉の時雨に染まる、是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば法華経には「世皆牢固ならざること水沫泡焔の如し」とすすめたり「以何令衆生・得入無上道」の御心のそこ順縁・逆縁の御ことのは已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ又本意に叶はば仏の恩を報ずるなり、悲母深重の経文・心安ければ唯我一人の御苦みもかつかつやすみ給うらん、釈迦一仏の悦び給うのみならず諸仏出世の本懐なれば十方三世の諸仏も悦び給うべし「我即歓喜・諸仏亦然」と説かれたれば仏悦び給うのみならず神も即ち随喜し給うなるべし、伝教大師・是を講じ給いしかば八幡大菩薩は紫の袈裟を布施し、空也上人是を読み給いしかば松尾の大明神は寒風をふせがせ給う、されば「七難即滅七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり現世安穏と見えたればなり、他国侵逼の難・自界叛逆の難の御祈祷にも此の妙典に過ぎたるはなし、令百由旬内無諸衰患と説かれたればなり。

然るに当世の御祈祷はさかさまなり先代流布の権教なり末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり、譬えば去年の暦を用ゐ烏を鵜につかはんが如し是れ偏に権教の邪師を貴んで未だ実教の明師に値わせ給はざる故なり、惜いかな文武の卞和があら玉何くにか納めけん、嬉いかな釈尊出世の髻の中の明珠今度我身に得たる事よ、十方諸仏の証誠として・いるがせならず、さこそは「一切世間・多怨難信」と知りながら争か一分の疑心を残して決定無有疑の仏にならざらんや、過去遠遠の苦みは徒らにのみこそ・うけこしか、などか暫く不変常住の妙因をうへざらん・未来・永永の楽みは・かつかつ心を養ふともしゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず、「三界無安・猶如火宅」は如来の教へ「所以諸法・如幻如化」は菩薩の詞なり、寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき、南無


妙法蓮華経南無妙法蓮華経。

                            日蓮花押

木絵二像開眼之事

                    文永元年 四十三歳御作

仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏には・をとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼・大日の印真言は名は仏眼・大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云、故に普賢経に法華経の仏を説て云く「仏の三種の身は方等より生ず」文、是の方等は方等部の方等に非ず法華を方等といふなり、又云く「此の大乗経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得る」等云云、法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちと・あらはし