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日蓮大聖人・池田大作

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諸宗問答抄  (6/8) 文字は是一切衆生の心法の顕れたる質なり
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よりも伝えずとなのらばさては禅法は天魔の伝うる所の法門なり如何、然る間汝断常の二見を出でず無間地獄に堕せん事疑無しと云つて何度もかれが云う言にてややもすれば己がつまる語なり、されども非学匠は理につまらずと云つて他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間暗証の者とは云うなり、都て理におれざるなり譬えば行く水にかずかくが如し。

次に即身即仏とは即身即仏なる道理を立てよと責む可し其の道理を立てずして無理に唯即身即仏と云わば例の天魔の義なりと責む可し但即身即仏と云う名目を聞くに天台法華宗の即身成仏の名目つかひを盗み取て禅宗の家につかふと覚えたり、然れば法華に立つる様なる即身即仏なるか如何とせめよ、若し其の義無く押して名目をつかはばつかはるる語は無障礙の法なり譬えば民の身として国王と名乗ん者の如くなり如何に国王と云うとも言には障り無し己が舌の和かなるままに云うとも其の身は即土民の卑しく嫌われたる身なり、又瓦礫を玉と云う者の如し石瓦を玉と云いたりとも曾て石は玉にならず、汝が云う所の即身即仏の名目も此くの如く有名無実なり不便なり不便なり。

次に不立文字と云う所詮文字と云う事は何なるものと得心此くの如く立てられ候や、文字は是一切衆生の心法の顕れたる質なりされば人のかける物を以て其の人の心根を知つて相する事あり、凡そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質なり汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり、さてと云うも・かうと云うも有と無との二見をば離れず無と云わば無の見なりとせめよと有と云わば有の見なりとせめよ、何れも何れも叶わざる事なり。

次に修多羅の教は月をさす指の如しと云うは月を見て後は徒者と云う義なるか若其義にて候わば御辺の親も徒


者と云う義か又師匠は弟子の為に徒者か又大地は徒者か又天は徒者か、如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ御辺を出生して後はなにかせん、人の師は物を習い取るまでこそ用なれ習い取つて後は無用なり、夫れ天は雨露を下すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり大地は草木を出生せんが為なり草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し、是を世俗の者の譬に喉過ぬればあつさわすれ病愈えぬれば医師をわすると云うらん譬に少も違わず相似たり、所詮修多羅と云うも文字なり文字は是れ三世諸仏の気命なりと天台釈し給へり、天台は震旦・禅宗の祖師の中に入れたり、何ぞ祖師の言を嫌はん其の上御辺の色心なり凡そ一切衆生の三世不断の色心なり、何ぞ汝本来の面目を捨て不立文字と云うや、是れ昔し移宅しけるに我が妻を忘れたる者の如し、真実の禅法をば何としてか知るべき哀なる禅の法門かなと責む可し。

次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門いかに花をさかせても申しやすく返事すべき方は能能いはせて後・南都の帰伏状を唯読みきかす可きなり、既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて桓武天皇に奏し奉る、仍て彼帰伏状を山門に納められぬ其外内裏にも記せられたり諸道の家家にも記し留めて今にあり、其より已来・華厳宗等の六宗の法門・末法の今に至るまで一度も頭をさし出さず何ぞ唯今・事新く捨られたる所の権教・無得道の法にをいて真実の思をなし此くの如く仰せられ候ぞや心得られずとせむべし。

次に真言宗の法門は先ず真言三部経は大日如来の説か釈迦如来の説かと尋ね定めて釈迦の説と言はば釈尊・五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり、其の中に大日経等の三部は何れの分にをさまり候ぞと之を尋ぬ可し、三説の中には・いづくにこそ・おさまりたりと云はば例の法門にてたやすかるべき問答なり、若法華と同時の説なり義理も法華と同じと云はば法華は是純円一実の教にて曾て方便を交へて説く事なし、大日経等は四教を含用したる経なり何ぞ時も同じ義理も同じと云わんや謬りなりとせめよ、次に大日如来の説法と云はば大


日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委く沙汰し問うべし、一句一偈も大日の父母なし説所なし生死の所なし有名無実の大日如来なり然る間殊に法門せめやすかるべきなり若法門の所詮の理を云はば教主の有無を定めて説教の得不得をば極む可き事なり、設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも訳者に虚妄有り法華の極理を盗み取て事密真言とか立てられてあるやらん不審なり、之に依りて法の所談は教主の有無に随て沙汰有る可きなりと責む可きなり、次に大日如来は法身と云はば法華よりは未顕真実と嫌い捨てられたる爾前権教にも法身如来と説たり何ぞ不思議なるべきやと云う可きなり、若無始無終の由を云て・いみじき由を立て申さば必大日如来に限らず我等・一切衆生・螻蟻蚊蝱等に至るまでみな無始無終の色心なり、衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり汝外道に同ず如何と云う可きなり。

次に念仏は是浄土宗所用の義なり、此れ又権教の中の権教なり譬えば夢の中の夢の如し有名無実にして其の実無きなり一切衆生願て所詮なし、然れば云う所の仏も有為無常の阿弥陀仏なり何ぞ常住不滅の道理にしかんや、されば本朝の根本大師の御釈に云く「有為の報仏は夢中の権果・無作の三身は覚前の実仏」と釈して阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ捨てをかれ候なり、既に憑む所の阿弥陀仏・有名無実にして名のみ有つて其の体なからんには往生す可き道理をば委く須弥山の如く高く立て大海の如くに深く云とも何の所詮有るべきや又経論に正き明文ども有と云はば明文ありとも未顕真実の文なり、浄土の三部経に限らず華厳経等より初て何の経・教・論・釈にか成仏の明文無らんや、然れども権教の明文なる時は汝等が所執の拙きにてこそあれ経論に無き僻事なり、何れも法門の道理を宣べ厳り依経を立てたりとも夢中の権果にて無用の義に成る可きなり返す返す。